あるひとについて/「穏やかな時間」

ふと思い出したので、あるキャス主の話をしようと思う。別に文章にしたいなにかがあるわけではないけど、彼女のことを思い出すたび痛い感情がこみあげてくる。文章を書くべきなのか分からない。

出会いはある夜だった。なんとはなしに普段は開かないツイキャスの声カテを開いて、なんとはなしにその人の配信ページに忍び込んだ。
期間にしてはそう長くはなかったが、受験勉強が本格的に始まる直前期の2023年2月~4月にかけて、私は彼女とともに長い夜を過ごした。
ぼくたちは同年齢。ある海を隔てた向こう側に住んでいる。等、共通点がままある。
しかしぼくは高校生で、彼女は学生ではない。高校を中退したそうだ。ぼくはファッション病みで、彼女はほんとうの病み。でもそこから抜けだそうとしている。すごく偉い。予備校にも行きはじめた。
昔小説を書いていたとか、自殺未遂をして病棟に入院したとか、中学生で大学生と付き合っていただとか、彼女のいろいろなことを教えてもらった。

ぼくにしては珍しく、コメントを積極的に書いた。最初コメントをするときは頭が発火するかと思った。ずっとしようしようと思ってもできずに、ぼくの主義思想的にもコメントするべきではなかったが、どうかしていた。恋心にも近かったのかもしれない。

ある夜、一緒に泣いた。
誰かに甘えたい……といい、彼女は泣いていた。
気持ちは同じだった。ぼくも冷たい夜に誰かの体温がほしくて、ハグしてほしくて、ツイキャスの声カテをながめていた。そして彼女と出会った。
ただ話をきいていて、当たり障りのないコメントをするしかなかった。ぼくは言葉を磨いているはずだったのに、たった一人を変える力ですら持ち合わせていなかった。
聞いてくれてありがとう、と言われた。
なにもできないことがつらく、気の利いたことを言えないで、ただ海を介しているだけの距離を感じた。無力だった。
「心では勉強したい、頑張りたいって思っているのに、もっと心の奥側では無理をしていて、いつのまにか決壊している……自分の心がよくわからない」このようなことを言っていた。
すごく深いところまで繋がれていたのかもしれないし、ただ浅かったのかもしれない。もう確かめようがない。

ぼくは不誠実だった。
彼女に別の熱心なリスナーがついたことをきっかけに、受験勉強もあって次第に疎遠になる。
その後、8月以降、配信がないまま音信が途絶えた。
もう会えない、コメントで会話することもできないと知ったとき、死別に近いのだと悟った。この繋がりはあまりに脆かった。それでよかった。
失ってから大切なものに気づくというのはこのことだろう。

同じ大学を志望していると知っていたが、それから志望校を変えたのかもしれない。
同じ大学にいてくれたらいいなあと思うが、いると知っても会うことはしないだろう。さすがに身のほどは弁えている。
ただ、この瞬間を彼女がうまく生きていけていることを願っている。
そうしたらあの夜も少しは報われる気がするのだ。

ただ、眠れない夜、Radwimpsの三葉のテーマをいまでも時折聴いている。
二人で泣いていたあの夜から、ぼくはずっと抜け出せないんだ。ぼくは言葉できみを救うことができなかったし、ぼくはずっと寂しいままだ。
最初はクリニックで流れていそうな音楽だと思った。病人の心に障らないように、なんとか溶かすように流れるオルゴールメロディ。
制御のつかない精神に振り回されながらもなんとか前へ進もうとする、彼女の頑張りがここにあるような気がして。

なぜか配信のアーカイブが一部公開されて、聞けるようになっていた。久方ぶりに聞いた彼女の声は、心の中にあるものより、幾分か幼く聞こえた。

ここからは、彼女のことを考えて書いた文章を掲載しておく。


「劇物」より「穏やかな時間」(2023年夏執筆)

 一週間がたって朝、だれもいないことに絶望した。ぼくは自分の終わりを悟った。突然に死へ怯えて、ある寄る辺へ転がり込んだ。この頃のぼくの部屋はスピーカーから発された顔を知らない女の子の声でみたされている。

「ユ、ふわふわ、ちょきちょき、ぱちぱち」
 ぼくは「ユ」の話している言語が分からない。でも、声が聞こえているだけで十分で、コミュニケーションは必要ないのだと思った。AIに検閲されて死にかけのインターネット。そこでみかけた音声配信。街の外から体内へとどく数少ない情報の一つだった。
 「ユ」は毎日のように生放送をしており、ぼくは彼女の声を掛け流すことで、ズミの不在からぽっかりと開いた穴を埋めていた。
 
「ユ、ねむねむ、むにゃむにゃ、すやすや」
 ズミさんのいない今、ぼくは言葉を捨て、音を拾った。
 透きとおって、カフェオレでもご飯つぶでもない。とろとろした蜂蜜とすっきりした檸檬とつるつるの伏流水と、そのような喉ごしのよい構成物。
 あなたの声音は、あなたからの便りなのだと思う。顔を学習机によせて書かれた手紙。キャラクター鉛筆で丸文字を描くように、きみの口から発せられた言葉。
 どこか遠い世界、きみのなかに養われてきた声帯は、きみの悲しかったことや嬉しかったことと共に育まれ在りつづけた、きみの徳も不徳もぜんぶ隠し持った絶対領域。笑顔も涙も、世界からきみへそそがれる感情はきみの喉を通る。
 そういう、すべてのきみを含んだ声はすごく居心地がよくて、いつまでも眺めていられる。
 蚯蚓のはしった火傷のようなぼくの文字とは違って、きみのこえは綺麗だ。
「ユ」
 ときおり場は沈黙に満たされる。かすかな繋がりのみが増幅され、ぼくの端末から伸びた赤くない糸は、けっして赤くはない糸はゆらゆらと千切れそうになって、でも今だけは確かに「ユ」と接続されている。
 灰色の糸の終端を、ぼくからは決して手放すことをしないだろう。「ユ」が配信をつづける限り、ぼくはもやい綱を頼りに、ぽっかりと浮いたまま存在をつづけられる。

「ユ、どろどろ、ぷかぷか、くるくる」
 白と黒、無味無臭のクリーンルーム。
 ぼくなんか全部とかしてしまおう。どろどろのセメント。サンゴやウミユリといっしょ。カルシウムが絡み合って、隙間なく石灰岩として満たされて。だったらいいな。
 ズミさんをしくしく寂しがるぼくも、一人でさめざめ泣いているぼくも、その他の成分に攪拌されて拡散されて、もうどこにもいない。だったらいいな。
 そんな願いは聞き入れられない。ぼくでできたセメントが簡単にひからびるわけない。意志薄弱だもん。ぼくは真空パックの中だもん。成熟できたりしないし、頑固な石になれたら苦労しない。「ユ」の配信は一時間ほどで終わり、それ以外の時間ぼくは放り出される。

   B

「ユ」「ユ」「ユ」
 まるで天気のようにきみの声の様子はころころと変わり、
 まるでお日様の機嫌のように、泣いている君の気持ちはわからない。
 どれだけ技術が発達してもこの街の雨は止められなかったように、ぼくは彼女の涙にどうすればいいか分からなかった。
 それどころか、雨を止めたくないと思った。雨が流れている限り大地は潤い、涙が流れている限りぼくの心もどこか平衡がついている。ぼくの代わりに、彼女が泣いてくれている。
 結果的に、ぼくが内心で「ユ」の不幸を願っていたこと、それはどれほどの罪か。
 
「ユ、しとしと、ぴかぴか、ざーざー」
 何も知らなかった。「ユ」から伝わらない言葉たちの中身を窺おうとして、大量発生する理解しえなかった部分は横暴な解釈をしていた。ぼくは「ユ」の本当を何も知らなかった。
 欺瞞で、利己でゆがめていた。

 一人の少女を観察し、自分の新たなセーブデータだと思いこんでいた。推しへの同一視。ぼくが外に出る代わりにあなたは街へ繰り出し、美味しいものをたべて、ぼくはあなたが食べている空想で霞をたべた。それは自分の舌で味わうよりも随分と色彩豊かにみられた。
 ぼくの人生ではなかった。

 あなたが落とした財布はこちらの財布ですか。
財布じゃなくて人生そのものなんです! はよ返せ! そうですか、中に何が入っていたかって覚えてます? 
 ……所有権を主張できません。
 返せ、返せよ。人生を返せ。自分の? いやきみの。何もかも棚に上げて、自分の罪を素知らぬふりして、言えるものか。ぼくにろくな人生はありません。財布を盗もうとした犯人はぼくだ。すごすごと引き下がる。すっかんぴんのズボンのポケット。君はいないし、夢はないし、ほうら絶望がまってる。そうなっちゃう。
 終焉がやってくる。大予言もなしに、誰も明日がこないなんて知らないで、世界の終わりは訪れる。地球内の悲劇は宇宙にとってちっぽけなように、街角の個人的な破局は誰も彼もしらんぷり。
 そんな当たり前がやっと分かってしまった、今日のこと。
 多くの終末とおなじで、全ての週末とは違うように、ぼくは終わりがくる今日を知らなかった。

   B

 いつものように、ぼくは自室のベッドに転がっていて、いつものように、「ユ」は遠いどこかから配信していた。
 突如、大きな音。世界の地響きは、君の泣き声にしてはちょっとばかり音量が大きく、野太かった。ざわめきがした。軋みだった。世界が叫んでいた。サイレンが鳴いていた。
 微かに小さなきみの声がした。世界が壊れていくなかで、ぼくの支えだった彼女は幼すぎた。その声は日常きいているものと変わらないはずなのに、遠く遠くから聞こえてくる。
 これも彼女の日常だったのだ。背景はユが生きている街で、かつ戦場だった。

 現実へ引き戻され、遠い遠い世界で起こっていることだとようやく理解したとき、ぼくは何が起きていたのかを悟った。
 時機よく、ズミさんからのメッセージが受信される。
「戦争が起きている」
 そうだったらしい。

「君もくるか?」

「ユ」は戦火の下に生活していたらしい。外へ出て行けなくて、誰かと会えなかったり、誰かを失ったりして、それで泣いていたらしい。
 ぼくはその果てしなき号哭を、年頃の女の子らしい些細なことで悩んでいるのだろうと身勝手に決めつけ、キャラクター性を押しつけ、挙句エンターテインメントとして消費さえしていた。

 ぼくは「ユ」と灰色の糸で繋がり、触れあえていると確かに感じていたが、実情は全く異なっていた。さしのべられたと思った、天界から垂れ下げられた糸は距離が足りていなかった。呼ばれた名前は本来ぼく宛でさえなかった。
 あの穏やかな時間、ぼくにとっては優しくとも、彼女にとっては苦であったものにくるまれながら、ぼくは繭に包まれていると勘違いした。幾重にも懇切に毛糸で編まれた、暖かな襟巻だと思った。たった一本の糸だったのに。
 
 あろうことかぼくは、はるか頭上の糸の先端、線未満の点だけを眺めて天上の彼女を空想した。脳内で、支配し、思うがままにし、誇り高き美しさを貶めた。ぼくが彼女を助け出すことはなく、ぼくだけが彼女にただ救われて、搾取していた。ぼくは愚かな幸せ者だ。

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