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夢のちまたに生きる


(2021年6月「音楽文」に掲載いただいた文です)

 宮本は、とても不思議だ。どんな激しい感情を歌っているように見えても、聴いているこちらの気が遠くなってしまう程の怒涛の声を発していても、いつでも透徹とした世界を漂わせている。激しさと同時にそれ以上の静けさを感じさせる。TVやインタビューなどで、着飾りたい、愛されたい、お金持ちになりたい、と俗世的とも取られる発言をするが、ちぐはぐなまでにどこか浮世離れした印象を与える。私はその理由を、宮本の根底にある無常観に由るものではないかと感じている。

 悲しいときは行き過ぎて うれしいときは流れ 
 見上げれば sky is blue 
 <エレファントカシマシ Sky is blue>

 全ての感情も出来事も、等しくただ過ぎゆくのみ。という大前提の上に、宮本の生命感に溢れた世界が成り立っているように見える。これは常にどの曲にも感じており、それが宮本の曲のやさしさや、懐の深さであると私は個人的に思う。

 そんな宮本の作詞世界で「夢」という言葉は、エレカシの初期から宮本浩次ソロの作品の中で折々に挿入されており、曲ごとに示唆に富んだ言葉として用いられる。初期と近年の歌詞における「夢」は以下の様に描かれ方は異なる。次第に「夢」に力強いイメージが付与されてくる印象だ。

 そうさ俺は夢の中で
 主役を演じる 
 そう夢の中で
 うわっつらの あたりさわりのない うわっつらの 
 <エレファントカシマシ 夢の中で 1988年>

 悲しみけむる町の中 孤独にさいなまれしこのハートに
 愛と喜びの夢を咲かせるぜ 偶然とノリと思いつきでさあ飛び出せ
 <エレファントカシマシ Easy Go 2018年>

 明日も夢追いかけ続けるのさ sha・la・la・la
 <宮本浩次 sha・la・la・la 2021年>

 私が「夢」という言葉で一番に思い出すエレカシの曲は<「序曲」夢のちまた>だ。何にも似ていない美しい旋律で始まるこの曲は、演奏されている間は現世から切り離された場所にぽつんと居るような気持ちになる。2020年のエレカシ野音ライブでは1曲目に演奏され、ライブ配信を自宅で観ていた私は、一瞬でその世界に放り込まれた。

 明日になればわかるだろう
 明日もたぶん生きてるだろう

 春の一日が通り過ぎていく
 ああ 今日も夢か幻か
 ああ 夢のちまた
 <エレファントカシマシ 「序曲」夢のちまた 1989年>

 私は、若い頃のように「明日もたぶん生きてるだろう」とは素直に思えない。年齢を経て親しい人との別れを経験し、明日は必ず来るものではない事を知った。私も明日必ず生きているとは限らないのだ。

 1989年発表のこの曲で歌われる「夢」は儚い印象で、日々を白昼夢のように生きる人の姿が思い浮かぶ。対して近年の宮本の歌う「夢」は力強く、何かをこの手に入れるのだという決意を感じさせる。そのように強く「夢」を歌う宮本はとても頼もしい人物のようだ。
 一方、遅かれ早かれこの世から消えていく、名も無い私の「夢」とは何なのだろうか。経験や冨、名誉を今から願ったとして、大したものにはならないだろう。たとえそれらを得たとして、やがてはまた一つずつ手放していかねばならない。なんという事だ。でも宮本はそんな事を百も承知で、「夢」を体現しているではないか。私は宮本をやや眩しすぎる様に感じる事もあった。

 私の「夢」とは何だろう、生きる意味とは何だろうか、と常にぼんやりと頭の片隅で思い続けていたが、先日JAPAN2021年7月号の宮本のインタビュー記事を読み、以下の発言部分に釘付けになった。

 「生きてることイコール、それを夢を追い続けてるって言葉に置き換えてるだけだから。」

 「生きてるってことを自分は歌っているつもりではいる。」
 <JAPAN2021年7月号 宮本浩次インタビュー p101,102>

 え?「夢」は、生きてることと同じ?「夢」ってもっとキラキラしてるものじゃないのか?私は混乱の中に希望の尻尾が見えた気がして、急いで「夢」という言葉を辞書で調べた。


 「夢」 
 ①睡眠中に持つ幻覚
 ②はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。 
 ③空想的な願望。心のまよい。迷夢。 
 ④将来実現したい願い。理想。
<岩波書店「広辞苑」第六版 p20118 抜粋>

 宮本は長年を通し「夢」のはかなさ、心の迷い、願いや理想とあらゆる面を歌い続けていた。そして彼のこの世のものでは無いような存在感と、理想に向かって邁進し続ける力強い姿は、「夢」という言葉を体現しているようだ。翻って、その事で彼は強く「生」を体現しているのかと感じた。
 儚い夢も力強い夢も、表裏一体の「生」だったのだ。極端に言ってしまうと「夢」なんて無くって、ただ私たちは生きてるのみだ。 

 ああ、と私は安堵にも似たためいきをついた。そうだった、私たちは今、生きているのだった。生きているからこうやって愚にもつかない文を捻ることも出来るのだ。せっかく生きているというのに、ぼやいたり人のせいにしたり、なんだかしょうもない事をしている気がする。いや、もちろん自分の好きなところだってある。さっさと寝ればいいのに、子供が寝てから好きな事を書いて一人で楽しくなっている所とか。 

 人生が終わるのがいつなのかはわからないが、多分「夢のようだったな・あっという間だったな」と思うのだろう。私の全ては消え去っていくが、私は生きていたのだ、という事実だけは確かだ。生きているならせめて、今日を良い日にしたいじゃないか。

 私は<花男>という曲が大好きだ。挑発的な歌詞のようだが、今となっては私には、でかい愛に溢れた言葉達に聴こえてくる。

 きさまに言うこと何もない
 聞きたいことも何もない
 俺は口もと笑いうかべて
 きさまを信じるさ

 <エレファントカシマシ 花男>
 
 私には素直にこの歌詞が飛び込んでくる。私もあなたも、ただ生きているのだ。生きるという「夢」を日々紡いでいるのだ。拙い言葉も発してしまうが、私はただあなた(家族や友人、そしてまだ会わぬ人)を信じていきたい。それが私の「夢」だ、と思った。

 キラキラした「夢」からしばし解放された私は、改めて「夢」を恥ずかしがらず口にしていきたい。宮本という稀有な表現者の作品に触れることにより、私はそのような平凡な事を堂々と思った。明日も私はキラキラと生きる。きっとあなたもキラキラと生きるだろう。

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