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さらけ出し続ける姿のうつくしさ

2017年12月にロッキングオン主催のウェブサイト「音楽文」に掲載していただいた文章です。個人的に大切な文なので、ここに載せて残す事にしました。

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1996年、バイト先の有線からかかった「悲しみの果て」が鳴った時を昨日の事の様に覚えている。この歌詞にはこの声しか有り得ない、演奏も曲の構成も全てが奇跡の様な曲だと思った。それから15年弱、エレファントカシマシの音源を熱心に聴き、ライブに通いつめ、宮本の声や一挙手一投足に息を飲んだ。

しかし仕事や結婚に出産と経る中で、私はエレファントカシマシの音楽やライブから遠ざかって行った。自分の足元があやふやだったからエレファントカシマシに縋って甘えていたのだな、と振り返ったりしていた。
数年経ち、その間に宮本が病を患った事に心を痛めたり、見事に復活したというニュースに安堵しつつもその時々のエレファントカシマシの活動は追えずにいた。心の中では時折りエレファントカシマシの音楽を鳴らし、今どんな音楽を携えて活動されているだろうと思いを馳せつつも、慣れない育児家事に日々が過ぎていった。

そんな中、2017年の初頭。ネットで<宮本がドラマ出演>という話題を見つけた。その宮本の画像を見て私は大変動揺した。私の記憶の宮本とは随分異なり、丸みを帯びた笑顔で部屋着のようなパーカーを着ている。私の記憶の中の宮本とのかけ離れ方に全身の力が抜けるようだったが、同時に「宮本、いい年の取り方してるな…」と心が浮き立った。

その直後にTV番組でエレファントカシマシが「悲しみの果て」を演奏する姿を観て、言葉を失った。私が夢中になり始めた頃と変わらぬ目で、色褪せ無い気持ちを込めて、画面の向こうの1人でも多くに伝わらんとして、真摯に歌っている。私がエレファントカシマシを好きになる前も、活動を追えず離れていた間も、ずっとずっと宮本は、エレファントカシマシはこうやって生き様を見せてくれていたのか、と思った。

一時、エレファントカシマシを「うーん、新曲もまた同じような事を歌ってるなあ」などと思っていた事もある。人生そのものを見せているのだから、もがき続ける姿を見せてくれているのだから、内容が目を見張るように変わるわけがない。グラデーションに変わり行く、その時々の心の色を見せてくれていたのだと気付いた。それはとても勇気の要ることだ。

昔の宮本はちょっと偏屈に構えすぎているのかな、でもそれが魅力だなとかつて思っていた。しかし今になって見えてきた。宮本は最初から自分の一番大事な心の奥底を見せてくれていたのだ。だからどうしようもなく惹かれたのだ。

「自信を全て失っても 誰かがお前を待ってる
お前の力必要さ 俺を俺を力づけろよ」
(ファイティングマン)

自分の強がりも弱みも、希望も、人を信じたい切なる気持ちも、全て最初から宮本はさらけ出していたのだった。目で、声で、体の全てを使って必死でさらけ出し続けてくれていた。それは本当に美しい姿だ、と純粋に思う。

ライブで上記の歌詞を聴くと、様々な自分の感情が一気に爆発して、毎回泣きながら大笑いしているような感じになってしまう。私は自分をさらけ出したいと思っているのだ。自信が無い自分の事も好きになって、堂々とやりたいのだ。失敗しても、何度もやり直そうと思える自分になりたいのだ。そんな自分でいいのだ、と大声を張り上げたくなる。

エレファントカシマシにどうしようもなく惹かれる私だが、人生を誤魔化したり甘えさせてはくれない。お前をさらけ出してお前の道を行け、といつでも明確に言われている気がする。

エレファントカシマシと私はこれからも人生が交わる事は無いだろうし、全く別の道だ。私には大事な家族も友人達も居るが、皆自分の道を行かねばならない。その人生の覚悟を再度させてもらった気持ちだ。自分をさらけ出し、ひたすら自分達の道を行くエレファントカシマシの姿を私は心から祝福したいし、私も自分の道を行く私を祝福したいと願う。

「ああ ひとり行くお前の姿 全てのものが祝福するだろう」(おまえはどこだ)

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