母の愛が欲しい(カルト宗教と子供の役割)

母は親に甘えられなかったのだと今の私は思います。“お姉ちゃんだからしっかりしないと”、“お母さんが大変だからしっかりしないと”、“お父さんのお世話もしないと”、“弟のお世話も…”“私がなんとかしないと…”

これらは母の言葉の節々から読み取れた周囲の期待に応える姿です。ずっと誰かの人生も背負ってきたのではないかと思いました。

母は離婚する少し前からとあるカルト宗教に依存するようになりました。

子供が5人いて赤ちゃんもいる。その上不倫して遊び狂うアルコール依存症のDV旦那。頼れるはずの親も当てに出来ない。そんな状況ならば、藁にもすがりたくなる事は想像できます。

私はその宗教団体の二世として、支配的な教育を受けて育ちました。

宗教を盲信する母は、その教えを強く信じており、子供達にも強要するようになりました。
教えに背いたと言って、しょっちゅう怒られ戒められお尻を叩かれ、ベランダに出されました。どうして自分がこんな目に合うのか、納得できる理由がいつも見つかりませんでした。

「お母さんだって辛いんだよ!」
と言いながらお尻を叩く母に、小さな子供ながら(だったらやめればいいのに…)と冷めた感想を抱くこともありました。

その宗教の教えは
【神を何よりも先ず第一にすること。そうすれば神からの祝福があり、これから来る“終わりの日”を生き延びて楽園に行ける。もし死んでも信じていれば楽園で復活の希望がある。】
というものでした。

母は神の命令に背かないように生きていくようになりました。
子供達にもその教えを守ってもらわなければ、自分も子供も楽園に行けない!と思っていたのでしょうか…
私はとても厳しい規律の中で、世の中を知ることが出来ないままに成長していく事となりました。

世間を“世(山羊…悪)”とし、自分達を真の教えを守る“羊…善”として差別していく生活はとても異常なものでした。
世のものは生活に必要な最低限度以外は取り入れる事が許されませんでした。世の友人を作ること、テレビを観ること、世の行事全て、世の教え全て。
書いたらきりがないので敢えて端折りますが、この世の中で生きているだけで、クリスマスツリーを綺麗だと思うだけで、罪悪感が煽られていくような息苦しい生活でした。

私の辛かった思い出としては、誕生日の事です。せめてクラスメイトにプレゼントだけでもあげたいと思っていても、親に駄目と言われていました。ですから、ほんの気持ち程度の文房具などをこっそりとあげることもありました。母に黙っている事に罪悪感がつのりました。誕生日会でケーキを食べて友人や親戚からプレゼントをたくさん貰えた話を聞いたり「おめでとう」と言われて嬉しそうにしている姿を見ると、羨ましくてとても辛かったです。
私も誕生日会してほしいな。私の産まれた日を一緒に喜んでもらいたい。今でもそんなふうに思います。

小学三年生の頃、クリスマス会に誘われた時、その子のお家のお母さんが母を説得しようとしたことがありました。他人の親に電話させたとあとから怒られる事になりましたが、あの時母に電話をしてくれたクラスメイトのお母さんに、長い間とても感謝していました。どうしても行きたかったあの時の私の気持ちを、受け取ろうとしてくれた人がいたと思えたからです。

私の愛情欠乏感と不満は増していくばかりでした。
おねしょは兄妹全員小学生低学年から中学年頃までしていました。陰湿な兄妹喧嘩も耐えませんでした。もしかしたら全員が母の愛情を得るために生きていたのではないかとさえ思います。
誰が親に見てもらえるか。誰が親に認められるか。誰が親に愛されるか。
愛情を得るための争いや競争が無意識下で行われていたように思います。

長男は父親兼夫代わりとして母を支える役割。
長女はお手伝いさんとして家事や育児を担う役割。
次男は親の期待に応え親の劣等感や欠乏感を埋める役割。
次女の私は家族のストレスのはけ口で罪を背負う役割。
三女は自立できない無力な子供の役割。

私には家族にそれぞれこのような役割があるように見えていました。

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