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自分を好きではないけれど、私がそろそろ認めないといけないこと

「自肯定感の高さで人生が決まる、自分を好きになれ。」

自己肯定感について探せばいろいろな解釈が出てくるけど自肯定感について語られた多くの文脈は「自分のことが好きか嫌い?」のメッセージが込められているような気がする。

私は明確な自分に対する自己が分からないから、自分のことが好きか嫌いかに答えづらかった。

そもそも謙遜の美徳をもった日本人は「自分のこと大好きです」っと語れる人はどれくらいいるのだろうか?

検索した自肯定感によると

日本語のWikiさんによると
自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉。

Life After Trauma(英語の本)によれば
帰属意識がある、自分と他人と向き合うことができる、理解されていると感じる。(めっちゃ要約)

愛とは?

「無条件の愛」を丁寧に伝えられる人達もいる。その中で育てられると自肯定感が自然と身につき、機能不全の家族で育つと自肯定感は育ちにくいと言われている。

私は自肯定感を育むのに必要な「愛」の実感がないまま育ってしまった。とうぜん自己肯定感が高いわけもなく、むしろ自己がわからなかった。「人が人を愛する」という概念も分からなすぎたので、映画をみたり本を読んだりして「こういうのが愛するといことなのね。」っと愛からくるであろう行動を参考にしていた。

私が選んでしまった映画や本は「無条件の愛=自己犠牲」的なことが多かったので、愛とは何かとてつもなく大きくて命をかける何かのように認識していた。

そして「好き」と「愛している」の中には大きな差があるのだけれど、
私たち日本人は「I love you」とおんなじ意味で「好き」と愛情表現することも学んだ。だけどどの文脈で「好き=愛している」となるのかは分かりづらい。


自肯定感ハックばかりな日々

私は触るものはすべて壊すくらいの手先の不器用さと、初めての人と話すと手が震えるほどの自己肯定感の低さを持っていたので、心理学を参考にした自己肯定感を上げるハックをしながらしか生きれなかった。

一生涯かけて愛せる何かや誰かを探しつつ、自肯定感を上げるハックをしていると、いろんな経験をした。好きなことや好きな人も増えた。

だけど一生涯かけて愛せる何かを発見できたかと言えば謎だ。

好きな人が増えたからと言っても人間関係で両想いばかりをしてきたわけではない。健全な人間関係を築く過程で大事に思いあっているのに、お互いに誤解したりされたり配慮のなさで傷つけあったりもした。

それでも好きな人は好きだ。完璧な相性じゃなくても。

だからそろそろ私は次のステップに進む時かもしれない。


自分を好きとは言えないけれど

昔の手帳を整理したら、

愛とは、すべての感情を経験することができるスペースのこと。
ロバート・プリナブル

っていう誰かの格言をメモしていた。

自肯定感ハックの一番大きな要素はありのままの自分を受け入れることだ。
ポジティブな感情もネガティブな感情も自分の一部だと認めること。
ネガティブな感情をポジティブな意味に変えようとするのでなく、ただ存在を感じること。

私はダラダラしてるし、偉そうなことは言うし、人生をかけて何かを頑張ってますっていうわけでもない。だからと言って自慢できるほどの資産やスキル、一生を食いつないでいける国家資格があるわけでもない。

ただ生きることを今まで一生懸命頑張ってきた。
気がついたらそれだけだった。

だけど、今はやりたいことはあるし、友達やパートナーは困ったときは支えてくれるし、私が間違いを犯したとしても許してくれる。

だからソコソコ幸せにいきているんだと思う。

「ってことは、私は私を愛しているのではないか?」

再度メモってたの格言を見直すと、
「愛とは、すべての感情を経験することができるスペースのこと」
と書いてある。


幻想からの

SNSやメディアを見ていると「すごいな、かっこいいな、頑張ってるな」って人がいっぱいいるし、見ていると私も応援したくなるし刺激される。

自分のことよりそんな人たちのことを「この人好き!かっこいい!」って自信をもって言える。

自分のことを好きかと聞かれれば「どちらでもない。」って答える方が心地よい。

だけど「かっこいい、ステキ、好き」という他者に向けた刺激的な好きと「好き=愛している」という自分に向ける好きは違う気がしている。

自分や親しい人に向ける内向きな「好き」は格言にあった「すべての感情を経験することができるスペースのこと」という愛というニュアンスを含んだ「好き」が適切なのかもしれない。


I feel good about myself

オーストラリアに住んでると、
「How are you ?」って聞かれたら最高な意味の「good」だけじゃなくて、まぁまぁOKなときでも「I am good」って言ったりもする。

もしかしたら自分のことを好きか嫌いかを問うときに、「まぁまぁOK」的なニュアンスを含んだ「GOOD」 を自分に向ける意味で「自肯定感が高い、自分を好き」と答えても良いかもしれない。

自肯定感が低い、自分のことが好きでないと言う代わりに。


愛する育む

「自肯定感が低い、自分を好きではない」って言うのは割と簡単だったりする。「自分のことを好き」というよりは誤解を生まない気がするし、周りの目も気にしなくてよい。

だけど、「自肯定感が低い、自分を好きではない」っと思っているとずっと自己肯定感を高めるためのハックに捕らわれる。

私の経験上では、自肯定感を高めるハックばかりに目が行く理由は何かを手に入れるためだったりもする。その何かは大体は成功や達成だったり、誰かより秀でるためである場合が多い。

それに加えネットで出ている自肯定感を上げるハックは、自己肯定感と自己効力感がごっちゃになったハックも多い。

いつまでも「優れてる何かがなければ自分を好きになれない」っと無意識に思っていると、幸せを実感することに鈍感になってしまう。

私は愛の概念が、自分の人生をかけることや自己犠牲をいとわないのが愛、だと愛を感じる基準のハードルを上げていたときは、そんなに幸せを感じることができなかった。

今は自分や相手に対して「すべての感情を経験することができるスペースのこと」つまり共に育むことが愛ではないのかなぁって思う。

私は私を愛しているのかもしれない

わざわざ自分のことを愛している宣言を外にしても意味はないけれど、そろそろ「自分のことを愛しているのかも」と認めるやさしさを持ちたいと思う。

自肯定感の低かったときの名残で膨大自己に悩まされるときもあるかもしれない。だけど自分を愛しているのかもしれないと自覚をすることで、幻想から抜け出せる。


私はこれから自分を愛でる時間のなか生きようと思う。



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