日常で感じるどうしようもない難問とどう向き合うか?【このnoteのスタンス】

普段の生活ではほとんど考えないけれど、年に何度か「どうしようもない難問」を考えてしまうことってありますよね。なんで戦争はなくならないのか、とか、本当の意味で人にものを伝えるってどういうことだろう、とか、なぜ宗教はなくならないのか、とか。

このnoteでは、そういう生きていくうえでぶつかる「どうしようもない難問」をピックアップしてきたいと思います。日常の些細な問題を取り上げてもつまらないし、日常とはまったく縁がないアカデミズム圏内だけの細かな問題にはさほど興味もありません。生きていくなかでたまにぶつかる、けれど解決しようもないのでそのうち忘れてしまう。でも心の底のほうでしっかりと溜まっていく、そんな難問を取り上げてみたい。

たとえば、僕が最初にこういう難問にぶつかったのは、中学2年生のときにアメリカ同時多発テロがきっかけだと思います。あのツインタワーに飛行機が突っ込む映像を見て、すごく単純に「どうしてこんなことが起こったんだろう」と感じた。正直にいうと、あの事件にとくに怒りも憎しみも悲しみも嘆きも感じませんでした。たぶん子供だったからだと思います。子供って案外、冷淡ですから。ただ唯一感じたのは、純粋な疑問だけ。なぜ、あの人たちはこんなことを起こしたのだろう(起こさなければいけなかったのだろう)、と。
もちろんこんな問題を考えたところで、どうなる訳でもありません。収入が増えるわけでもないし、恋人ができるわけでもないし、友達から賞賛されるわけでもないです。だから、そのうち忘れる。2日もすれば日常の些細なことで頭がいっぱいになる。明日の部活いきたくねーな、とか。でも、なにかの拍子にまたその疑問が浮かぶ。忘れて消えたわけじゃなくて、心の底に沈んで溜まってただけだと気づく。
みなさんの心のなかにも、そういう難問がきっといくつか溜まっていると思います。一生解決されることはないけれど、ずっと溜まり続ける難問。ふとした拍子にまたその難問が顔を出して、なんとなくネットで検索する。そういうときにこのnoteに出会えれば、私も幸運に思います。

そのような難問に対して、このnoteでは、私の私観を述べるつもりはありません。基本的には、すでに世の中にある解釈や回答をみなさんにご紹介したい。正直にいうと、たいした考えを持っていないからなんですけど。

google scholarのトップページには『巨人の肩の上に立つ』という言葉が記されています。過去の先人たちの叡智を参照する、という意味でしょう。学術の基本精神ですね。わたしが疑問に感じたことは、たいてい、過去の誰かがすでに疑問を感じている。だからわざわざゼロから自分で考える必要はなくて、過去の叡智を参照すればいい。そう思っています。

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