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「箕面萱野」駅に三平を想う

1. はじめに
 西国街道は江戸時代の主要街道のひとつであり、京都から下関までの経路であり、山陽道とも言う。このうち、京都―西宮間は山崎街道とも呼ばれ、宿場や問屋場、本陣・脇本陣などが整備された。大坂を迂回するこのルートは参勤交代の西国大名などが利用し賑わった。京都―西宮間には6つの宿駅、山崎(大山崎町)、芥川(あくたがわ)(高槻市)、郡山(茨木市)、瀬川(箕面(みのお)市)、昆陽(こや)(伊丹市)、西宮(西宮市)が設けられ繁栄した。大阪府北部に位置する箕面市の南部をほぼ東西にこの街道が貫いている。今から300年ほど前、元禄14年(1701年)3月半ば、ここを西へ急ぐ2人の武士がいた。赤穂藩士早見藤左衛門と今回の主人公である若干27歳の萱野三平(かやのさんぺい)である。彼らは江戸城松乃廊下で起きた事件について国元に報告する書状を届ける役目だったのである。
 彼らはちょうど萱野村(現在の箕面市南部)にさしかかっていた。地名のとおり、萱野三平はこの地の出身だった。ここで偶然にも母の葬列に出くわしてしまったのである。母の小満(おみつ)は3月17日に死去していた。同行している藤左衛門が亡き母に一目会ってゆくよう勧めるのを振り切って先を急いだのだった。彼は仇討ちには参加できなかったが、48番目の幻の志士として人々の記憶に残り、『仮名手本忠臣蔵』でも早野勘平(↑上記の写真参照)として舞台に登場している。箕面出身でわずか28歳でその短い生涯を閉じた彼に焦点をあてて、その足跡を辿ってみたいと思う。

2. 三平の故郷箕面
  それでは三平の故郷、箕面(みのお)について紹介するとしよう。大阪府の北部に位置し、北側には北摂(ほくせつ)の山岳地帯が連なる。標高は100~600mほどで地質は古生層であり、多くの動植物を育んでいる。山中には落差33mの箕面大滝、瀧安寺(りょうあんじ)・勝尾寺(かつおじ)などの古刹も点在する。これらは、山岳修行の道場であり、古来霊地として知られていたものである。あたり一帯は明治百年記念事業のひとつとして、1967年(昭和42年)に東京都八王子市にある高尾山とともに国定公園に指定された。この時誕生したのが、明治の森箕面国定公園(963ヘクタール)と明治の森高尾国定公園(770ヘクタール)である。自然研究路やビジターセンターなどが整備され、2つの国定公園は全長1400㎞に及ぶ東海自然歩道で結ばれることになった。当公園は年間200万人が訪れる大阪屈指の観光名所であり、川沿いの遊歩道「滝道」にはレストランや土産物店が立ち並んでいる。
    

箕面大滝

 箕面大滝は「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑で、その流れ落ちる雄姿が農具の「蓑(みの)」(箕)を思い起こさせるところから箕面と呼ばれるようになり、地名もここに由来するとされている。箕面駅からのびる滝道を行くと左右に「もみじの天ぷら」を揚げる土産物店が目に付く。箕面の紅葉は有名で、大阪はもとより関西各地から多くの観光客が訪れるが、これを天ぷらにしたのは珍しい。その歴史を紐解くと起源は何と1300年前にさかのぼるという。修験僧の役行者(えんのぎょうじゃ)はもみじの美しさを愛でて、燈明の油でこれを揚げて旅人に供したとされている。これがもみじの天ぷらの始まりで、明治43年に阪急電車が箕面有馬電軌鉄道を開設すると、観光客も大いに増えて人気を博していった。この製造は手が込んでいる。紅葉が盛りの11月の下旬ごろ、1枚1枚ていねいに手拾いでの収穫にはじまる。材料は箕面に多く自生するイロハモミジではない。真っ赤に染まるもみじ葉を使うと、揚げた時に黒く変色するのだそうだ。そこで使用するのは一行寺楓(いちぎょうじかえで)と言う特殊な種類で、黄色く色づいた時に収穫し、水洗いした後、塩漬けにして1年ほど寝かせて灰汁(あく)抜きをする。塩抜きと脱水の工程を経て、やっと揚げるときになる。衣は上質の小麦粉にザラメ、白ごまなどを加えて、菜種油で揚げる。揚げたてを希望する観光客も多いが、これは油が切れておらず、2~3日おいてから袋詰めするそうである。滝道では店先に大鍋を構えた土産物店がもみじの天ぷらを揚げており、箕面の代表的な風物詩となっている。

3. 48番目の赤穂浪士萱野三平
 次に地元箕面の出身の萱野三平の短い生涯を辿るとしよう。生年は延宝3年(1675年)、旗本大島善也(おおしまよしなり)の家老萱野重利の3男として生まれた。兄が2人、姉も2人、妹が1人いた。三平と称されるが、本名は萱野重実(しげざね)である。俳人としても知られ、涓泉(けんせん)と言う号を名乗っていた。萱野氏は摂津国の萱野村(現在の箕面市)で鎌倉時代から続く土豪であり、旗本の大島氏に仕えていた。三平が13歳の時、大島義近(おおしまよしちか)の推挙により播州赤穂藩主の浅野長矩(あさのながのり)に仕えることになった。大島家と浅野家はともに山鹿素行の門下で親しかったのである。
 元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩は江戸城松乃廊下で吉良上野介義)央(よしひさ)に刃傷に及んだ。この事件の発生当時、江戸在府中の三平は早見藤左衛門とともに、これを赤穂に知らせる浅野大学(長矩の弟で旗本)の書状を託された。あて先は家老の大石内蔵助である。早駕籠(はやかご)で江戸を出発、旅人なら17日、飛脚でも8日のところを昼夜兼行でわずか4日で走破したと言う。冒頭の西国街道を急ぐ三平が、母の葬列に出くわしたのはこの時のことであった。3月19日未明、大石の屋敷近くの井戸で水を飲んでから息を整えて事件を伝えたという。これが現在に残る「息継ぎ井戸」として残っている。三平は浅野大学の書状を無事大石に届けることができた。これを見た内蔵助はさぞかし驚愕したことだろう。こののち、彼は大石たちの仲間に加わることになる。
 幕府の裁定で赤穂藩は改易となり、藩論は紛糾したものの赤穂城は開城し、多くの藩士が浪人となった。三平も故郷の萱野村に戻らざるを得なかった。帰ると父の重利は三平に主家である大島家への仕官を強く勧めたのである。浅野家へ彼を推挙したのも大島家であったが、実は吉良家とも縁が深かったのであった。ここで彼は大いに悩むことになる。仲間とともに神明に誓って仇討ちを約束した以上、それは父親にも話すことはできなかったのであった。元禄15年(1702年)1月14日未明、主君浅野長矩の月命日のこの日、大石宛に仇討ちに参加できぬことの詫びと同志の本懐を祈る遺書をしたため、自害したのであった。享年わずか28歳であった。その前夜、父や兄嫁と談笑しており、朝になっても起きてこないことから発見されたのである。泉岳寺に彼の供養塔が四十七士の墓の傍に設置され、実家の旧宅は萱野三平旧邸宅長屋門として、大阪府指定史跡として保存されている。

萱野三平記念館


4. 日頃心の花曇り
 三平は俳人としても知られていた。涓泉(けんせん)という号を用いて句集を著すなど、藩にもその腕前は評価されていたようだ。「落ち葉見ん 人もほつほつ切通し」、「秋風や 隠元豆の杖のあと」、など多くの俳句を詠んでいる。彼の最期の句、すなわち辞世の句が次のとおりである。
    晴れゆくや 日頃心の花曇り
    (現代語訳)殿の切腹以来、ずっともやもやして晴れなかった私の 
          心も、これでようやく晴れることができそうです。
 昔、若い時にこの話を聞いた時には、何と古臭い価値観に圧し潰された人だったのかと特に気にも留めなかったことが思い出される。しかし、今になってこの事件を振り返ると印象もまた異なる。あの渋沢栄一ですら、若い時は攘夷を計画していた。『忠臣蔵の決算書』(山本博文著)によると、仇討ちに参加した四十七士のうち、上級・中級武士で参加したものは少なかったという。むしろ、下級家臣の参加が多く特に江戸詰めの藩士にとって、藩主切腹、相手の吉良は存命では武士としての面子が立たないと考えたのは当然だったのだろう。事件を国元に知らせた4人(1便:萱野と早見、2便:原と大石)のうち3人が仇討ちに参加し、萱野が討ち入り前に自害したのだった。
 大阪市を南北に貫く地下鉄御堂筋(みどうすじ)線(北端部は北大阪急行電鉄)の北の終点、千里中央駅から箕面市内へ延伸する工事がようやく完成した。これが2024年3月に開業して、終点の駅名は「箕面萱野駅」となった。当初は「新箕面(しんみのお)駅」と仮称していたが、由緒ある萱野の名を冠することになったのである。来阪の際には箕面萱野の駅名を目にすることもあるだろう。その時はぜひとも、若干28歳の悩める青年の姿が確かにあったことを思い出してもらいたいものである。(以上)