過保護が生む哀しきモンスター

子供を守りたい。
これは多くの親が子供に対して抱く感情ではないだろうか。

とある父親が言う。「在日韓国人の僕の人生はマイナスからのスタートなのだ」と。
彼は勉強だけが自らの人生を救うと考え、強い強迫観念を持ちながら勉強に励んだ。無事京都大学へ進学した彼は、一流企業に就職し、東京に大きな家を建て、妻と3人の子供が健やかに過ごせるように力を注いでいる。もう一度言う。彼を社会的に強くしたのは「勉強」だった。

彼は自らの子供の自由を尊重する。なんでも自分で決めていいと言う。しかし教育に関しては人が変わる。
「東大、京大、一橋、早慶上智以外は専門学校だ。」
子供が高校の先生と何度も相談して決めた志望校も上記の大学以外であれば「論外」と聞き入れなかった。

一流の学校に入れたい。
一流の服を着せたい。
一流の音楽を聴かせたい。
一流の食事を与えたい。

小さな頃から良いものに触れさせることに異論があるわけではない。しかし、この親心はどこから「やり過ぎ」となってしまうのだろう。
親が子供の目の前にある穴を一つずつ埋めてしまえば子供は思考する機会を失ってしまうよう。親に守られ、自らの生活への思考を止めながら過ごした日々は子供たちに何を残すのだろうか。人間は考える葦であるとは、人間は思考をつないでいったときにその人たり得ることを意味する。その人の物語は彼らが抱いた問題意識の移り変わりを結ぶことで紡いでいける。穴を埋めてもらった子供が20, 30代で自らの価値観を省みたときに、彼らは自分という中身のない容器の存在に気づき、絶望してしまわないだろうか。

とある父の子供が大学受験を終えた。子供の成績は最後まで安定せず、父が開催する受験勉強会の時間は日に日に長くなっていた。立教大学の合格発表日、子供はwebで「合格」の文字を確認した。電話越しに子供の合格報告を耳にした父。涙声で「よかったな」とだけ言って電話を切った。