達人の話

ある種の達人だけが到達できる境地、というものがある。
と言われて宮本武蔵や塩田剛三をはじめとする史上の大山を思い浮かべる方もいるとは思うが、今回かの方々について論考を披露するつもりは毛頭ない。彼らについては既に多くの先人が研究に研究を重ねその成果が幾多もの書物となりあらゆる書架に並んでおり、私のようなモグリ(というかそもそも物書きですらないんですけどね)には付け入る隙などない。であれば、誰に注目すべきなのか。自分だけが知っている卓越した技術を持つ他人。それはもっとも身近な隣人であり、私にとってそれは妻である。
 私の妻は湯たんぽの達人である。突然の発言に困惑する方も多いと思うので、簡単に説明申し上げる。湯たんぽの達人とは、湯たんぽ用に湯を沸かすと、やかんの中身と容量がぴったり一致する、驚異的な正確さで湯たんぽの容量を目分量で測れる能力の持ち主である。達人、と呼んでいる以上、注ぎ切った後にやかんの中からちゃぷんと水音がするなどもってのほかである。僅かも残っていないのだ。先日妻が沸かし、私が注いだ時、思いもよらぬドラマを体感した。湯を注ぎ始めてすぐ、思ったよりやかんの中身が少ないことに気がつき、再度沸かす手間を億劫がりながらもどれくらいの量かに思いを巡らせつつ注ぎ続け、あっやべっもう無くなる、とやかんを逆さまにして振って、最後の一滴がやかんから落ちた時、湯たんぽの口は表面張力で膨らみ、溢れる寸前で止まっていた。もしあと一滴多ければ、無残にも湯は溢れ、今日一日の役目を終えて洗濯カゴに放り込まれた台拭きを引っ張り出し、ダイニングテーブルを拭く、という余計な手間で煩わせてくれたことであろう。あまりの正確さに、吾唯足知とはこういうことかと感嘆のため息がもれた。どうして分かるのか、聞いてみたこともある。私わかっちゃうんだよねぇとその技術の高さを全く鼻にかけていないようだった。
 アフリカの人は動物の足跡をみて、三日前にゴリラが通ったなど即座に判別でき、風が吹けばその匂いで風上に象がいることがわかるそうだ。しかし彼らを日本に連れてきて、ドアの後ろに人を通し、人数を当てさせるなどの実験をすると、全く当たらなかったのだという。(臨床とことば:河合隼雄、鷲田清一共著)

 切実なのだ。生死に関わる事案なのである。
 湯たんぽは必須である。子供の添い寝をした事がある人ならお分かり頂ける思うが、多くの子供は寝相が悪い。いくら直してやっても、いつのまにか布団を蹴り飛ばし、90度から180度体を回転させている。子供がそうなった時、当然添い寝している大人の体には布団は掛かっていないか、運良く布団が掛かっていても、足、肩、背中のいずれかもしくは全部が布団から露出している事になる。そうなった時、フリースと靴下重ね履き、湯たんぽは命綱となる。主婦は最高のクリエイティブ職、との妻の言葉の通り、家事に終わりはなく、やろうと思えばいくらでもやる事はある。なるべく短い時間で湯を沸かし、手間を減らす必要がある。子供が寝た後でも、少なくなっているシャンプーや洗剤をネットで注文しなければならないし、自分の時間にこっそりハーシーズのチョコレートだって食べたいし、セレーナウィリアムスのインスタだってチェックしたいのだ。

 妻は湯を沸かしながらどこか楽しげである。自分の時間を過ごしている事もあると思うが、彼女はその営みそのものを楽しんでいるように見える。そしてそれは前記した史上の大山たちも同じなのではないかと思う。楽しむ時に減点式の採点方法は必要ないのかもしれない。結果と工夫があるだけであり、剣の素振りをしながら、組み手をしながら、蛇口をひねるタイミングを見計らいながら、昨日との差を感じ、喜びや工夫を重ねているのではないだろうか。沸かした湯がぴったり収まれば密かな達成感を感じ、余れば次は少し減らすだけだ。自分の湯たんぽの湯が余ったことで自責の念に駆られる必要はなく、誰かに責められる謂れも全くない(当然である)。
 私たちは自分の周りに自分の監視者を立てすぎている。多くの人が、にこやかに微笑みを向けてくれる隣人の機嫌をいつ損ねやしないかと怯えながら暮らしている。隣人の機嫌は隣人の問題なのだ。私たちの楽しむ姿勢とはなんら関わりはない。自分が切実に求めるものを、必要な時に必要な分だけ楽しめばいい。それをある意味淡々と続けたものがいつしか達人と称される域に達する。そしてどんな人にも毎日繰り返し行われたことによって、知らず知らず磨かれた美しい技というものがある。それが何か、自分では気がついていないだけだ。その事に気がつくことができれば、そこにフォーカスできれば、僅かであっても、しかし確実にこの世は愉快なものへと変わってゆく。そうであってほしいと思うことはあまりに楽観的だろうか?


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