おもちゃの話

子供ができると、手のひらサイズのプラスチックのおもちゃがどこからともなく、現れる。それはファミレスや歯医者、幼稚園などからサービス品として支給され、気がつくと自宅の床に、ベランダの溝に、水を抜いた風呂の中に、引き出しの裏に、破損または欠損した状態で打ち捨てられている。
 おもちゃが増えることは悪い事ではない。ごっこ遊びで、緊急出動の消防車が現場に向かうなら、せめて2台は駆けつけて欲しいし、機関車とレーシングカーが競走するなら観客席に観戦客の車があった方がそれらしい雰囲気が出る。しかし、それらのおもちゃ出どころがファミレスや歯医者であったりする場合、その命は恐ろしく短い。長くて1週間、短ければ10分ほどでその役目を終える。パトカーの車軸が折れ、プルバック機構の歯車が欠け、指輪の爪が柔らかすぎて宝石は行方をくらまし、お医者さんセットのピンセットはねじれてしまう。そして、それら救急患者たちの搬送先はお父ちゃんの机である。一応、治療見込みのあるものは瞬間接着剤と各種工具を駆使して復元を試みるが、そのほとんどは直らないか、直っても数分の間に治療は意味をなくしてしまう。そもそもそういう極端に安価なおもちゃはプラスチックの組成も悪く、壊れやすく、歪みやすく、直しにくい。その類のおもちゃが壊れてしまうと、子供の立場からすれば遊びはしないが、愛着だけはいくらかあるようで、すぐに捨てられるほど割り切れる訳もなく、壊れたまま行き場を無くしてしまう。
 どうしてこのようなおもちゃが生まれたのであろうか。ふたつよいことさてないものよ、とは河合隼雄の言葉だが、その言葉の指す通り、ファミレスやフードコートでの食事中に、10分でもそのおもちゃが子守をしてくれたのなら、親はゆっくり味わうとまではいかないまでも、一応自分の分は食べ進められる。買い出し中に、10分でも話しかけないでいてくれたら、献立と家庭用品の不足にいくらか集中できる。子供を喜ばせたい、保護者に食事の時間を持って欲しい、集客につなげたい、など真心からビジネス的な側面まで、様々な思惑から生み出されたそれらのおもちゃたち。その短い役目を終えて、大人に力なく首を横に振られた彼ら、彼女らの終着点が、ベランダの溝であり、風呂の底であり、引き出しの裏であることはあまり知られていない。

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