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※症状には個人差があります

怒りが止まらなくなってしまった。Twitterでわざわざその怒りを書く必要性がないため、一部再掲してnoteに考えをまとめる。

ただ、私の情緒が死んでいるだけである可能性は否定できない。

そもそも私は他人の死を食い物にする人が苦手である。特攻という行為による犠牲者に美しさやロマンを感じる人の情緒を美しくは思えないし、身内の死を自身のアクセサリーが如く意見を書く人の言動に感動できない。確かに他者の死は精神的に影響はでかいし価値観が変わることは否めない。ただ、他人が死んだことに対してどういう形であれ"ありがとう"と発するような人の言動を、個人的な見解として私は信用できない(これをぐちぐちいうためにnote開きました)。死は救いではないしロマンはない。転生なんてないし時間とは不可逆なものである。

というのも。

それとこれは違うシリーズを見た。一言で言えばご自身の自殺未遂と祖父の死は因果が全く違うことは留意してほしかった。あなたの祖父はあなたの代わりに死んだわけではない。そこに因果を無理やり発生させることは、祖父の死を冒涜しているようにしか見えない。

祖父の死によって価値観が変わり、立ち直ろうと思うきっかけになったことは十二分にその人の人生の影響があったことであろう。それを助けられたという日本語を使うのは、表現がややおかしいとは思うがそう認知する人もいるのであろう。ただ、祖父が代わりに死にましたからの感動みたいな話は違う。他者の死を自分自身に都合よく解釈して図々しい姿を感動で括り付ける行為は、他人の死への冒涜にしか見えない。その行為をすることで、祖父の死には意味があったと思い込むことで、その人が救われているのであれば、それはそれで仕方がない精神の落ち着け方の一つではあるとは思う。ただ、人の多く見る場で祖父の死と自殺未遂の因果が発生しているような言動をするのは違うと個人的には認識する。

個人的な見解としてこの手の感動鬱物語を出すと、うつ病の治療開始したての周りに味方がいない人が非常に苦しむのではないかという意見を持っている。それが故にあの手の話が広がるのは危機感がある。

うつ病を治療する人間が全てが全て家族を有している人ばかりではない。1人で治療せざるをえない人はいる。1人で治療をする苦痛は計り知れない。孤独と絶望を抱えながら先の見えないことに対して必死になる時期がある。そういう人がそういう時に家族に支えられている人がこうした言動をしていると、絶望感の淵から這い上がる苦しみを増長させるのではないかと感じるのである。

その人が1人でも多くの人を支えられる言葉を発したいという志は素晴らしいと思う。その熱意が伝わったからこそ広がっているのであろう。ただ、個人的に表現が残酷だと感じる部分が多かった。

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