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Tove評伝翻訳・エピソード0(zero)

トーベ評伝翻訳のきっかけとなった
新聞記事の翻訳がひょっこり出てきた。
2014年の年明け間もない頃、
Thomas先生が送ってくれた
SVENSKA DAGBLADETの記事を
特に何の当てもなく翻訳したもので、
これがトーベ評伝共訳者を探していた
編集者さんの目に偶然、とまったのでした。

10年前の翻訳で、拙訳も拙訳ですが。
最晩年のトーベの様子も言及されている
記事はめずらしいかもしれません。
※2014年の記事なので「生誕100周年」
となっています。



『時代の先駆者:トロールの母』

今年、生誕100周年となるトーベ・ヤンソン。
トーベと言えばもちろん、大きい鼻のトロール。

カーリン・スンベリがヘルシンキにあるトーベの
かつてのアトリエを訪れ、アーティストにして作家である
トーベとの出会いを振り返る。

********************
どこかにしまいこんでしまったのだが、以前
トーベ・ヤンソンから手紙をもらったことがある。
時間がないとか、その気がないとか、
そういったことが書いてあったかは
覚えていないが、インタビューの
申し入れに対する断りの手紙だった。
トーベの美しい手書き文字の”Nej”(No)を
がっくりしながら見つめたのを思い出す。

いくら探しても、その手紙はまるでどこかに
飲み込まれてしまったかのように出てこない。
とは言え、結局のところ私は生身のトーベ・
ヤンソンに会うことができたのだった。
時は1970年代、場所はストックホルム。
当時劇場監督を務めていたヴィヴィカ・
バンドレルのパーティーでのことだった。
ヴィヴィカはかつてトーベと深い恋仲であったが、
後に生涯を通しての友人となった。

多分、そのパーティーの模様を書いて
しかるべきなのだろうが、魅惑的な
ムーミンワールドに近づこうと
手を伸ばしながら、イタタ…と、
パーティーテーブルにぶつかるばかりだった
光景ばかりが浮かんでしまう。

ようやくトーベのそばに辿りついたものの、
スナップグラスを掲げて乾杯しようとしていた
ところにしどろもどろに話しかけ、
会話の邪魔をしてしまった。
私が支離滅裂にモゴモゴと並べ立てる言葉に、
ええ、そうね、まぁ、そうね…と
やさしくうなずくたび、
彼女のトレードマークの内巻きボブヘアが、
もう勘弁としてばかり、ゆらゆらと揺れていたのを思い出す。

あれから時が過ぎ、私はヘルシンキに向かった。
目的地はウルリカスボリィ通りにある、
トーベ・ヤンソンのアトリエ跡。
そこは、彼女の生前の状態そのままに
保存されている。
また私はヘマをやらかす危険があったが、何しろ、
ソフィア・ヤンソンに会う約束があったのだ。
トーベの弟の娘で、『少女ソフィアの夏』に
登場するソフィアのモデルとなったのが
彼女である。
多島海の島での暮らしで、ある夜、
不安になったソフィアは祖母にドアのカギは
ちゃんとかかっているかと訊く。
孫をなだめるおばあさんの言葉は、
トーベ・ヤンソンのファンにはたまらない一節だ。

「あいてるよ。いつだってあいてるよ。
安心しておやすみ」

ソフィア・ヤンソンは今でもドアはあけっぱなしで
生活しているのだろうか?そこのところを訊いて
みたかったのだが、もう彼女は亜麻色の髪の少女
ソフィアではなく、ファミリーカンパニーである
ムーミン・キャラクターズ社のクリエイティブ
ディレクター兼会長である。
私の質問はさらりとかわされてしまった。

「『少女ソフィアの夏』はフィクションです。
トーベ自身の子ども時代が投影されています。
パパとおばあさんと過ごした夏の日々が
ベースになっています。祖母のことは
大好きでしたから」

なるほど、で、ドアの鍵は…。

「ドアはあけっぱなしの、あのソフィアを
期待されているようですが、
あれはもう昔の話です。
私は少女ソフィアとして
表に出るべきではないのです。
年々そう感じています。トーベ・ヤンソンの
エージェントとしての自分とプライベートとは、
きっちりと分けています。
私にとってトーベ・ヤンソンは世界的に有名な作家
ではなく、普通に家族の一員である伯母なのです」

とは言え、今年はドアを閉ざしたまま
という訳にはいかないだろう。何しろ、今年は
トーベ・ヤンソンの生誕100周年なのだ。
そして今私は、1944年から彼女が過ごしたアトリエにいる。
天井の高い、塔のような部屋だ。愛やら恋やらを
投げ捨てていた訳ではない。
だが、仕事が最優先だったのだ。
嵐のように激しい恋愛の最中にあっても、
それはさて置き、であったのだ。
まさに、トーベ・ヤンソンの評伝のタイトルのように。
トゥーラ・カルヤライネン著『働け、そして愛せ』は
近日、スウェーデン語に翻訳される。

まるで教会のように高い天井の
ワンルームのアトリエ。
トーベがどうにか寝られるくらいの
ロフトがあるが、台所はもとからついていない。
彼女には食べ物には関心がなかったが、
コーヒーとたばこを切らすことはなかった。
まるでそれが燃料だったように。

ドラマプロデューサーのラーシュ・レーフグレンが
トーベに、孤島に行く際には何を持って行くのか?
と尋ねた時、彼女の答えは
「石鹸とウォッカ」その2つで充分!
だったという。

「彼女は小柄な女性でした。体重はせいぜい45kgでしたし」
と、ソフィア・ヤンソン。

階段をのぼると、窓から海が見える。
窓の外の景色を見るために据え付けたかのような
その階段を見ると想像がつく。こんなに狭くて急な階段は、
やせっぽちでなければ通れやしない。
そしてこのアトリエにおいて彼女は、
ムーミンワールドの創造主であった…だけではないのだ。

順を追って説明する必要があるだろう。
トーベは元々、画家だった。「ファッファン」こと
彫刻家の父ヴィクトール・ヤンソンと、
「ハム」こと画家の母ハンマルステン・ヤンソンの
娘として生まれた。
ハムは生計を立てるため、切手の図案を描いていた。

何せ、芸術家のアトリエ育ちである。
夜はパーティーでのパパの陽気な声を聞きながら
眠りにつき、朝はママが立ち働く音で目覚めた。
トーベが早々に芸術家として踏み出したのは
当然のことである。14歳の時には既に「ルンケントゥス」
という子ども向けの雑誌に
『プリッキナとファビアンの冒険』
という漫画を連載している。
つまらない質問ばかりする教師しかいない学校は
退屈でしかなくドロップアウトしてしまったが、
その後、叔父の家に下宿しながら、
現在のスウェーデン芸術大学の前身である
ストックホルム工芸専門学校に入学した。
トーベの母方の親戚はスウェーデン人であるが、
祖父のフレデリーク・ハンマルステンは王室付の牧師で、
夏にはストックホルムの群島のブリド島で過ごした。
ムーミン谷の原点はそこにある。

後に誕生するトロールたちについて、
トーベは時々で違う説明をしている。

スウェーデンで叔父の家に下宿していた時に、
夜に食料庫でつまみぐいすると
ムーミントロールっていうのが出るぞ!と
脅されたのがはじまりだ、とも、またフィンランドの
ペッリンゲ群島の別荘の屋外トイレの落書きが
そうかも、とも。

トーベの「自由こそ最高のもの」という記述は、
哲学者のイマニュエル・カントを彷彿とさせるものがある。

しかし、ムーミンが絵画として登場する以前から
トーベは既に画家であり、海外に留学し、
アーティスト同士の交流も積んでいった。
そして、恋愛も。

ソフィア・ヤンソンによると、トーベは色々な面で
先駆者であった。フェミニストであったし、
政治的にはラディカルだった。そして、
パートナーについても。相手を愛していることが
重要であり、それが男であるか女であるかは
さして問題ではなかったのだ。

「生誕100周年にあたって、トーベの勇敢で
革新的な面も取り上げられるとよいな…と思います」

彼女の不屈さはどこから来たのだろう?
ラーシュ・レーフグレンが実に詩的な表現をしている。
「何でも触れ、手にしたものはこぼさない、
彼女はそういう人だった」

ソフィア・ヤンソンによると、トーベの母・
ハムは更に拍車がかかった人だったという。

「彼女はとてつもなくリベラルで人道主義的でした。
スウェーデンのガールスカウトの組織を作り、
女の子もスカウト活動に参加できるようにしたのも
彼女です。奨学金を得て美術を学んでいたパリで
ヴィクトール・ヤンソンと出会いました。
ハムは家族の要でした。そして私にとっても。
私が6歳の時に母が亡くなりましたから。
祖母と過ごした夏は『少女ソフィアの夏』に
描かれているものとは少し違いますが、
でも祖母は間違いなく私の親友でした」

多分、トーベ・ヤンソンと母との関係も
同様だったようだ。というより、ふたりは殆ど
一心同体で、その絆は深かった。
ウルリカスボリィ通りのアトリエには
ファッファンが作った女性の彫刻が2体ある。
一体はトーベが、そしてもう一体は
トーベの母がモデルである。
その横のイーゼルには自画像
『Lovoan(ヤマネコのボア襟巻きの自画像)』がある。
その表情は真面目そうで、ユーモアのかけらも
なさそうに感じるかもしれない。

それもその筈、この絵はヘルシンキへの爆撃に
見舞われるという重苦しい日々が続いていた
1942年に描かれたものなのだ。

評伝『働け、そして愛せ』で引用されている
トーベの書簡には、戦争への嫌悪感がよく出ている。
戦争なんて、消耗するだけだと。雑誌「ガルム」の
イラストからも、彼女の政治的信念が伺える。
ガルムでは「ヒットラーやスターリンを
こき下ろせるのが痛快だった」という。

ムーミン谷はトーベ自身が安らぎを取り戻すための
世界だったのだろうか?多分、そうなのだろう。
ムーミンシリーズ最初の『小さなトロールと大きな洪水』は
終戦後の1945年に出版され、その後の物語へと続いていく。
ムーミンの物語(絵本を除く)11冊は、現在43の言語に
翻訳されている。

このショートボブヘアの女性は、
フィンランドのシンボルとなった。
マリメッコのテキスタイルのような
色鮮やかなシンボルに。

しかし、彼女の物語は誰に向けて書かれたのだろう?
こども?それとも大人に?

マルガリータ・ストレムステッドの著作に、
トーベの言葉が記されている。

曰く、児童書と言われるものは、こどもを想定し、
こどものために書くものではない。

マルガリータ自身も、大人である友人に向けて書くという。
こども向けと想定することもないし、
センチメンタルなど必要ない、と。

「そこが彼女の強みですね。センチメンタルに
捉われないのがよき児童書作家ですから」

フィンランドのスウェーデン語新聞である
ヒューヴドスタッドブラーデッドの文化部長で
作家のフィリップ・テイルは10代の時に、
トーベ・ヤンソンに感銘を受け、のめりこんだ。
その彼がスウェーデンラジオ放送の番組
「ルンドストレムのブックラジオ」で、
「ムーミンパパと海」について語っている。
ムーミンパパは、トーベの父・ファッファンの投影。
一方、ムーミンママはもちろん、トーベの母が
モデルである。ムーミンママの登場は
おひさまポカポカの牧草地をお散歩しながら…ではなく、
大波に浮き流されながらであった。
どんな時でもすぐに入り用なものを取り出せるよう、
バッグをしっかり携えて。

作家として、そして、ひとりの人間として、
トーベ・ヤンソンは波瀾万丈な人生と
ムーミン谷の平穏との間でバランスをとっていたのだろう。
マルガリータ・ストレムステッドによると、
トーベの嵐好きはパパ譲り。パパは、嵐でランプの灯が
消えると俄然、ワイルドになり創作意欲がわくような人だった。

「そうですね、彼女は嵐やカタストロフィーの類が好きだったと思います」

伯母のアトリエで、ソフィア・ヤンソンは静かな声で語った。

「自ら好んで嵐の中に入っていったかのように思います。
特に1955年にトゥーリッキ・ピエティラと出会った後は。
トゥーリッキはアーティスト仲間として出会い、
そして生涯の人生の伴侶となりました。
ふたりの出会いは芸術仲間のクリスマスパーティーです。
ダンス好きのトーベはトゥーリッキをダンスに
誘いましたが断られます。

「慣習からして当然の理由で」と
トゥーラ・カルヤライネンは
評伝で書いている。

後にトーベが受け取った、しましま猫の
クリスマスカードはアトリエのドアの内側に
今も残されている。やがてその猫は
縞模様セーターのトゥーティッキに
姿を変え、ムーミン谷に知のテーゼを投げかける。

「ものごとっていうのは、みんな、とても曖昧なものよ。
だからこそ、私は安心できるのだけど」

ふたりの出会いは、その後の人生を大きく変えていく。
後年トーベはこう書き記している。
「一緒にいたいと思う人がようやく目の前に現れた」

同性のパートナーと暮らすことは、
当時のフィンランドではタブーどころか
罪人扱いされるようなものであった。
しかしトーベは動じなかったし、
ホモセクシュアルが受け入れられるように
なったのは彼女によるところが大きい。

ムーミン谷のトフスランとビフスランにも
投影されているが…いや、違う。
このキャラクターが登場したのは、もっと以前の、
ヴィヴィカ・バンドレルと恋仲の頃であった。

トーベ・ヤンソン自身がモデルのキャラクターは誰だろう?

これについてはムーミントロールだと彼女自身が言っている。
もっとも、どのキャラクターも自身の投影になるものだが。
ソフィア・ヤンソンは、ちびのミィのようでありたいと
思ってばかりいたそうだ。

「でも今では疲れたヘムルといったところですけど」

特筆すべきというか奇妙なことに、
ムーミン谷の物語はフィンランドでは愛読
されてはいなかった。当初は、だが。
最初に凱旋を果たしたのはスウェーデンと
イギリスであり、スノークのお嬢さんと
ムーミントロールのしっぽが ぎゅっと
結ばれるように、フィンランドといえば
ムーミン谷…と連想されるようになったのは
後になってからだった。
とは言え、とにかくムーミン谷の創造主に
いくばくかの富をもたらし ―ここが重要
なのだが― アトリエを構えることができたのだ。

イギリスのイブニング・ニュース誌から
ムーミン連載の話が来た際に、
トーベは断ることができなかった。
連載契約は7年。トーベはこの契約に
がっちり絡みとられた。
そして5年間はどうにか頑張ったが、
残りの2年は弟のラッセが引き受けた。
トーベはムーミントロールならぬ
「ムーミン徒労(る)」になってしまったのだ。

「彼女はアートの世界に戻りたかったのです」
と、ソフィア・ヤンソンは語る。

その後の活躍はご存知のとおりだ。
絵を描き展覧会を開くだけでなく、
ムーミン谷の物語以外の本も発表した。
『少女ソフィアの夏』はもちろんのこと、
『フェアプレイ』『正直な詐欺師』
といった小説を執筆したのだ。

ソフィア・ヤンソンは1997年にヘルシンキに
戻るまで、数年間は外国暮らしだったという。
そして離婚し、息子ふたりを養うために
ファミリーカンパニーで働き始めた。

今やムーミングッズは世界中にあふれている。
このアトリエの通りにある店もフロア内全て
ムーミングッズだらけだった。クッキー型から
バッグ、マグカップ、洋服、台所のヘラ、
お茶…そう、何でもありだ。ムーミン関連商品の
売り上げは小売販売売上だけでも年商35億~45億
クローネにのぼるという。

こんなに洪水のようにムーミングッズがあふれると、
ムーミン谷の神秘的の魅力が駄目になってしまう
危険性はないのだろうか?

これに対してソフィア・ヤンソンは製品は
トーベの原画をベースにしており、原作の世界観を
損なわないので大丈夫だと言う。

「新しい製品であっても、トーベが生前描いた
作品を生かします。そして、家に持ち帰るのが
恥ずかしく感じることなどないよう、あくまで
クオリティは高くなければなりません」

ヒューヴドスタッドブラーデッドの文化部長の
フィリップ・テイルの話に戻ろう。フィンランドに
いると、トーベに関して歯止めが利かなくなって
しまうような感じがするという。
真面目な文化人たる友人たちは、
ヘルシンキに来るとこぞってアラビアの
ムーミンマグを買っていくというのだ。

「プロモーションの仕方にまだまだの面がありますが、
悪くないと思います。遅からず、アストリッド・
リンドグレーンと肩を並べるようになるでしょう」

トーベ・ヤンソンの著作を読むと彼女の偉大さがわかる、
とテーイルは太鼓判を押すが、ファンでなければ
あれこれ読み込むには至らないわけでもあり。

「ヤルマル・セーデルベリのような深さがある、
という感じでしょうか。そして、100周年で
アテネウム美術館で正統派の展示をする一方、
こどもを巻き込む市場戦略にも抜かりがないんですよね」

ムーミンフィーバーのようなこの状況に対して、
トーベは何を思うだろう?

自分が残したもので家族が幸せに暮らせていることを、
きっとトーベは喜んでいます、
とソフィア・ヤンソンは言う。
「こんなにまで売れるようになるとは
思わなかったでしょうけど」

ダン・ハンソンが写真撮影をしている間、
私は階段をのぼりロフトへ。
窓にはムーミングッズ。
グッズがあるのはアトリエの中ではここだけである。
お互いを信頼しあい、鼻を寄せ合うムーミンたち。
緑のランプが灯るベッドの横には本の山。
イーヴァル・アロセニウスの『リーヴェッツ・クナップ』
があるかと思えば、アグネータ・プレイエルスの
『フンギ:愛についての小説』も。

ここは聖なる場所のままなのである。
ソフィア・ヤンソンはわかっているのだ。
アトリエを訪ねたがる人は多い。だから
ヤンソン家はここを、トーベの生前のまま
残すことに決めた。美術館のように開館時間を
定めるのではなく、ごく個人的な場所として。

「ここは天井が高くて、考えごとをするにはもってこいなのです」

しかしその点がまた、ジャーナリストや研究者や
トーベに関心をもつ人々には引き込まれるポイントなのだ。

「ここに来るようになって、トーベのことが
色々わかるようになり、同時に多くのことを
感じるようになりました。例えば私が日本に
行った時、皆さんは私を『少女ソフィアの夏』の
ソフィアとして見るわけですよ。
それって何だかなぁって思いますけど。
でも、そう思ってしまう気持ちもわかるのです。
誰もが入り込みたくなり、身近に感じる作品を
トーベは作り続けていたのですよね」

―誰もがムーミン谷を彷徨いたくなる。

「そのとおりです」

トーベ自身も、島での生活は彷徨うかのようだった。
小屋にではなく、トゥーリッキとテントで過ごした。
つまり小屋は主に仕事部屋であり、もしくは客人が
泊まる時のためのものだった。クルーヴ・ハル島の
生活でトーベは何度も嵐に閉じ込められた。
持参した食料が尽きると小屋の食料庫に
降りて行き、古ぼけた缶詰を何とか
探し当てるようなこともあったという。

「そうそう、彼女はカニ缶が大好きでした」
と、ソフィア。

しかし、やがてトーベ・ヤンソンが島を離れる日が
ついに来た。
島での孤独な生活が難しくなったのだ。
そして最悪なことに、彼女は海が怖くなって
しまったのである。もちろん、体力の限界に
達していたというのもある。
そして晩年は肺癌と乳癌を発症し、
一年近く病院で寝たきりであった。

病院を見舞う家族が、彼女に本を読み聞かせていた
のをソフィア・ヤンソンを思い出すという。

―ソフィアさんが最期に読んであげた本は何ですか?

「『たのしい川べ』(※)です。彼女が大好きな本でした」

世界中のあちこちでトーベ・ヤンソン生誕100周年が
祝われるだろう。ダンスが大好きなトーベは天国で
気だるいウインナ・ワルツを踊っているのだろうか。
終わることのないワルツを?

ソフィア・ヤンソンはやれやれとばかり首を横に振り言った。

「ワルツじゃなくて、チャールストンでしょうね」

帰りの飛行機で、私は例の手紙のことはもう、
忘れることにした。
トーベ・ヤンソンからのではなく、
アストリッド・リンドグレーンからの
手紙だったかもしれない。
ふたりとも天国で、トーベが誕生日に
チャールストンを踊るのを、
アストリッド・リンドグレーンは
木の上あたりから眺めているだろう。
そして地上にいる家族たちは祝杯のグラスを掲げる。
「トーベ、ありがとう」と。 (訳:畑中麻紀)


(※)訳者註:「たのしい川べ」:イギリスの作家ケネス・グレーアム著の「The Wind in the Willows」

SVENSKA DAGBLADET 2014/1/5掲載

Writer:KARIN THUNBERG

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