ハッピーエンドという幻想
『ハウルの動く城』をなんとなく見た。
大好きな作品だったけど、久しぶりに観たら随分と感じ方が変わっていた。
こうやって、愛し愛されめでたしめでたし、これこそ幸せ、というストーリーに随分洗脳されていたのだな、と気づけた。
シンデレラや白雪姫、おやゆび姫にキャンディキャンディ、、、女の子は愛し愛され幸せになれる、それも洗脳だったのかぁ〜・・・と『わたし』に目覚めた私が冷めた目でエンディングを眺めていた。
ジブリ作品大好きだった私たち夫婦だったが、ハウルが公開された頃は息子が小さく映画どころではない頃。夫婦仲はもうだいぶギクシャクしたものになっていて、久しぶりに家で休んだ夫の携帯のアラームがハウルのテーマに変わってて、「あ、ハウルだ〜!」と無邪気に言ったりしたけど、本当に思ったのは(誰かと見に行ってるやん)だった。この思い出ももれなくくっついてくるから、もうハウルはいいや。笑
そんで、そのせいか、昨晩は夢に元夫が出てきた。もうほんと、勘弁して欲しい。
当時は自覚するのを恐れていた、『近くにいても心が通じない感覚』が、夢で再現され、感じてた。
隠してることが多くて、それが子どものような隠し事ならいいけど、なんというか違うんだよね。
相手が私だから言えない、と隠してる感じ?
それを本人の勘違いと気づいてたり、本人の選択として他者に言わないだけなら構わないけど、
私のことを『言えない人』と前提した上で『隠す』行動を取るということは、私はその人にとって、どんどん『言えない人』になっていく。
そうやって離れていったと思われる、仲の良かった友達も何人もいたな〜と最近になって思い出した。
だから、私がそうさせる何かがあったことも確かなんだろう。
確かに以前は、自分にも他人にも、許しがない感じだった。
私自身が親を『言えない人』に認定してたしね。
あぁ、そうか、全てはここの投影だったのか。
相手が『言えない人』だから言わない、ではなく、
シンプルに自分がただ『言わない』を選択してる、
に変わるだけで、世界は随分と優しくあたたかくなってきた。
前者は決定権が相手にあって自分はそれに従うしかないという構図で行動を取り、
後者は決定権が自分にあって行動を取ってる。
これが世界の見え方の大きな違いになってくる。だから、決定権が相手としている思考では『行動しない』がとても大切なのだ。
それを教えてくれたのは息子の言動であり、そこには夫のDNAも間違いなく作用していることを思うと、
やつの言動の選択についてはクズだと思うが、DNAレベルでは感謝と尊敬だし今も愛しているのである。
それが私にとっては、ハッピーエンドの一つなんだと思った。
一人寂しい朝を迎えても。
それはずっと欲しかった『自由』をようやく手に入れたところなので。
誰にも何も言われない思われない環境が、他人に決定権を渡しがちな私にはまだまだ必要みたい。
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