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コロナ禍備忘録②休むことへの意識変化

微熱が出てからの2日間は、目前に控えた生放送の仕事をどうすべきかで悩み、ほとんど寝られずにいた。

もし自分が感染していたら、電車に乗って仕事に行くことで感染を拡めてしまうかもしれない、
共演者にうつしてしまうかもしれない、それは絶対にあってはならない。
もし感染していなくても、微熱があるということは身体からの何らかのサインであり、
抵抗力が下がっている状態で出掛けていくことは、やはりリスクがある。
出掛けたことで万が一感染してしまったら、後で結局周りに迷惑をかけることになる。
それに家族を守ることは出来るのか。
でも、明日起きたら平熱かもしれない。
家を出る時に平熱でも、スタジオ入館チェックの検温では熱が上がっているかもしれない。

…という具合。
ぐるぐるぐるぐる、全てたられば、
この時点ではどう考えても答えが出ない、終わりのない暗闇で苦しんでいた。

控えていた仕事は、15年担当している生放送のラジオ番組で、
これまで、体調不良を理由に休んだことは一度も無かった。
だから、どこかでプライドも邪魔していたし、
原因が分からない状況で、周りを混乱させたくない思いもあった。

微熱のみで、他に症状は無い。
咳が出るわけでも息苦しいわけでもなく、声は出せるし話す元気もある。
そこで、可能ならばリモート出演を、と打診してみたが、
その時点では諸々の調整が出来ないとのことで、結局、休むことで着地した。

今でこそ、タレントやアナウンサーが“体調不良で大事をとって”とか“少し熱が高めなので大事をとって”と番組を休んでいるが、
ほんの2、3週間前までは放送業界ではまだそういった空気は浸透していなかったように思う。

私も、取り越し苦労かもしれないし、この程度の症状で休んでいいのだろうか、そんな思いの方が強かった。
世の中がこの状況じゃなければ確実に仕事に行っていた、そんな程度の微熱だ。

でも、何度も言うようだけれど、新型コロナウイルスについては分からないことが多いのだ。
だからただ、微熱がある事実だけを見つめた時に、休むことが最善の選択だということは頭では納得出来た。
でも心ではなかなか思うようにはいかなかった。

今年の年明けに読んだ、コラムニストの伊是名夏子さんの著書「ママは身長100㎝」に、
伊是名さんの北欧の友人が来日し、風邪薬のTV-CMを観て驚いていたというエピソードが書かれていた。

「ちょっと熱っぽい、頭が痛い、喉が痛い、でも仕事を休めないあなたに」
そんなキャッチコピーに聞き覚えがあるが、それを観て
「休めない仕事なんてあるの??」と。

日照時間の少ない北欧では、心を病んでしまう人が多いため、
そのぶん身体には何倍も気を遣い、少しでも不調があればすぐに学校も会社も休みましょう、
というのが国を挙げて推奨されているそうだ。
だから、ちょっと熱っぽかったり喉が痛かったりして休むことは当たり前で、
休んだら、治るまで家でゆっくりと過ごすので、薬も飲まないそうである。

きっと、どんなウイルスにも細菌にも、人類が初めて出会った時にはそんな風に対応していたはずだ。
だってそうするしかないから。

薬が出来たことは素晴らしいけれど、薬があること、薬を飲むことが当たり前になっていて、
休むという行為をどこかに押しやってしまっていたのではないか。
身体が資本、だなんてよく言う割に、私たちはずいぶんと身体を蔑ろにしていたのではないか。
休めない、休みづらい環境が、日本社会ではあまりに当たり前になっていたのではないか。
これは男性の育休取得率の低さ等にも表れている。
そして“休むことは罪”だという意識や、ちょっと無理して頑張ることが美徳という意識が、
自分を含めてどれだけ根付いていたか。

そしてそれは、実はもっとずっと前から植え付けられていたのではないか…

私は高校3年間皆勤で、卒業式には卒業証書と共に、皆勤賞の賞状も受け取った。
私の学年は比較的多く、一学年約450人のうち30〜40人が皆勤だったと記憶している。
3年生の最後の方は、進学や受験の準備のため出席日もまちまちで、
欠席としてカウントされないようにどううまく出席するか、
というのが皆勤のゴールが見えていたクラスメートとの話題だったように思う。

身体が丈夫で健康なのはとても誇れることで、本来はそこが称されるべきだけれど、
”どんな理由であれ休まない”ことに注視していた気がする。

さらに遡ると、幼稚園や小学生の頃、
数日休む同級生に、クラスの皆で励ましのお手紙を書いた。
数日空けて登校した同級生は、どこか恥ずかしそうだった。
休む、ということを一大事に仕立て上げていたのではないか。

今回のコロナ禍においては、はじめの頃、感染したスポーツ選手や芸能人が謝罪していた。
もちろん軽率だったと言わざるを得ないケースもあったけれど、
感染→謝罪
という構図は、誰もが感染する可能性がある中で根付かせるべきでないという意見も多かった。

私は結局、生放送を2週にわたり休むことになったが、
復帰時には謝罪の言葉を放送に乗せないことを心に決めていた。
もちろん関係各所にはご迷惑をおかけしたので、謝罪と謝意を素直にお伝えしたが、
その関係各所の皆さんのお陰で、番組は滞りなく放送でき、
リスナーの皆さんはむしろ普段とは違う雰囲気を楽しんでくださったはず。
だから番組上では、謝るのではなく
“お休みをいただき、ご心配いただき、ありがとう”の気持ちを一番に伝えようと決めていた。

休むことは、罪でも恥ずかしいことでも一大事でもない。

この世界的なコロナの感染拡大は、今までの価値観や概念を全て覆す出来事かもしれない、と誰かが言っていた。
覆す勇気が試されているのではないか、「休む」ことへの意識も含めて、そんなことを考えた。