「句会、こわいな」と思った話。

 俳句を始めて2年が経ちました。
 国語の授業で習ったことはありましたが、単体としての「俳句」を意識したのは、母が参加する俳句結社の吟行句会を手伝ったとき。2017年9月のことです。

 俳句誌で吟行句会を記録する当番になった母から、現場に随行しての下準備を頼まれ、お安い御用と請け負ったのでした。

 ちなみに吟行とは、俳句をつくるために名所や旧跡などに出かけて行くこと。みんなで出かけることかと思っていましたが、一人で行っても吟行と言っていいみたいです。

 このときの吟行は茨城県土浦市の土浦城址の亀城(きじょう)公園。お堀に囲まれたお城の姿が、水に浮かぶ亀に見えたことから、土浦城は別名「亀城(きじょう)」と呼ばれていたとか。兵庫県の姫路城が白鷺城と呼ばれているような感じでしょうか。

 私は吟行そのものには参加せず、吟行後に近くの公民館で開かれる句会へ、ICレコーダーとノートパソコンを持参して合流しました。

 母が所属する結社はかなり規模の大きな結社のようで、土浦の吟行句会の参加者は120名。
 句会にはいろいろなやり方があるみたいです。土浦吟行句会は、参加者がその日につくった句を短冊に書いて無記名のまま提出→集まった短冊が参加者に配られ、誰の句かわからない句を現場で清記用紙に書き写す(清記)→写し終わった清記用紙を見ながら自分がいいと思う俳句を選ぶ(選句)→選ばれた句が読み上げられる(披講)→作者が名乗りをあげる→先生の選を発表→先生の講評、という方式でした。

 これも後々知ることになるのですが、句会って、誰の句かわからないものから選ぶことが重要なんですって。「句会の平等性」と言うらしいのですが、先生の句も、私の句も、句会に参加している社長さんの句も、初めて参加した小学生の句だって、誰が書いたかはわからない。その中から、純粋に「いいな」と思われた句だけが選ばれていくわけです。この何者でもない人に一打逆転のチャンスがある感じ。ワクワクします。

 さて、土浦吟行句会。短時間で120人分の句を披講して、名乗って、選評していく様は、まるでスポーツのようだなと感じました。ずっと卓球のラリーが続いている空間にいて、その球が急に自分に飛んで来る可能性もある。俳句の印象が変わりました。私のふだんの生活リズムに比して、スピード感がありすぎて、ちょっとこわい。

 「春の海終日のたりのたりかな」(与謝蕪村)

みたいなのんびり感はどこにもありません。
 今になれば、句と句会とはまったく別物なのだとわかりますが、最後の挨拶で言われた「捨てる句はお濠へ」も洒落のきいた激励だと気づかず、「句会、ちょっとこわいな」と思いながら帰ってきたのでした。

(つづく)


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