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行動と共にある瞑想 (第1話)

 愛する永遠不滅の魂達よ! 聖なる恵を受けた子供達よ。一時的に肉体として具現化し、精神的な制約と限界を経験している永遠の旅する魂達よ! この地球上をただ彷徨うのではなく、魂の本当の意味を探し求める為に顕現できたことは、本当に運が良いことです。あなたは、今まで何度もこの世に生を受け、そして何度も旅立っていっているのです。

 クリシュナ神は、この点についてアルジュナにヒントを与えて下さいます。
「古代から伝わる秘密を教えよう。至高の存在についての知識だ。私がマヌ王やイクシュヴァクの賢い王達にも説明をした同じ事を述べよう。」
しかし、アルジュナは尋ねます。

「どうにも理解できません。私もあなたクリシュナも、最近今世に生まれたばかりではないですか。しかし、その尊い科学を教えたという人達は、歴史上の人物です。今ここにいるあなたが、どうやって過去の人に教えたというのですか?」

この疑問に対して、クリシュナ神はお答えになります。

「アルジュナよ、今ここに、あなたと私が一緒にいるのは初めてではない。今までにも何度も一緒にいたことがあるのだ。私は聖なる義務を果たす為、今までに顕現してきたことを全て覚えているが、この記憶はあなたには備わっていない。あなたには与えられていない。」

 これは偉大なる神様のお恵みです。もし今までの全ての生まれ変わりの記憶が残っていたとしたら、今現世で生きていくのが大変困難なものになるでしょう。何故なら、もし今世までに関わり合った全員を覚えていたとしたら、その人達とのあらゆる感情的な記憶に飲み込まれてしまうからです。幸運なことに、それらは封印されています。そしてそれは創造のきっかけとなっています。存在するということは、ここに短期間一時的に滞在し、そしてまた存在する為に離れていくということです。

 もし、これが薔薇の花のような快適なベッドであったり、ミルクや蜂蜜のような心地良いもので満たされていたとしたら、何度も繰り返して存在し体験することに楽しみを見出せません。ですから、創造、維持、そして破壊という素晴らしいサイクルを創り出した神様の率直なご意見は、
「アルジュナよ、世界は悲しみに満ちている」
です。

 痛みは永遠ではない (バガバッド·ギーター;BG 8章15節)

 この世には、永遠不滅なものは何もなく、悲しみに満ちていて本当の幸せは存在しません。快楽を伴う感情はありますが、至福はありません。快楽とは、神経が外的要因から興奮する刺激を受けた際の反応に過ぎません。例えば視覚的な快楽は、視神経とその経路に関係しています。皮膚感覚の快楽とは、触覚とそれに繋がる神経に関連しています。何か良い音を聞いて心地良さを体験したとしたら、それは聴覚とその神経路に関わっています。さらに良い匂いを嗅いで快く感じたのであれば、それは嗅覚とその神経に関わっており、味わうことで喜びを得たのであれば、それは咽頭の神経とその経路によるものです。それらの神経経路が働いている限り、快楽という経験をすることができますが、それら全てに信頼性はありません。何故なら、もし部分的な経路に問題が生じたとしたら、それまで快楽を与えていたものでも、同じような悦びを与えてくれるとは限らないからです。もし主要な神経経路に問題が起こったとしたら、全ての神経がうまく働かなくなるでしょう。

 これが悦びや楽しみの正しい分析です。これらはただの現象に過ぎません。一番外側の末端で感じた感覚が神経を刺激するプロセスにしか過ぎず、それが脳の中心に伝わって、ある種の刺激が生じるのです。人類が視覚、音、味、触覚、匂いから肉体的に経験するすることは、全てこの範囲で起こっているだけです。これは心の作用ではありません。心は取得したもの、拒絶したものなど物事を区別するという形で反応するかもしれません。心がイエスと肯定的な形で反応すると、それには「これは好き」という快楽のラベルが貼られます。また心がノーと否定的な反応したら、それを楽しむことはなく、それを欲することもなく、それについて悩み、苦悩というラベルを貼り付けます。

 人類が経験できる最大限を完全に解析してみましょう。完全なる熟睡から目覚めた瞬間から、この全世界は目の前に、形(ルーパ)、味(ラサ)、音(シャブダ)、空間(スパルシャ)、匂い(ガンダ)として現れ、深い眠りに就くと外的世界は消滅します。もし5つの知覚器官がきちんと作用しなくなったら、あなたは今とは全く違った状態となるでしょう。感覚器官が働かなければ、快楽を与えてくれる対象物で満ちた外界は、あなたにとって不在となります。外の世界が存在しなくなるのです。そして日を追うごとに、考えていないようでも、このような状態でも本当の幸せを見つける術はあるのだろうかと考え始めるようになるでしょう。しかし、まず最初に、幸せという言葉の意味を考えてみましょう。今ここで探し出そうとしていることは何でしょうか? この捉え所のない幸せとは、どのように定義できるでしょうか? 幸せとはただ心の内の状態を示しているに過ぎず、何か他のものによって変化してしまうということは、自由を失った奴隷のような状態でもあるということです。

 この世を創造した神様は、このことを良く理解されています。

「アルジュナよ、ここは嘆きと悲しみの世界なのだ。」

よって、この不幸に満ちた世界で幸せを望むのであれば、それがある場所を探さなければいけません。永遠で不変な完全なる宇宙の原理こそが、純粋な至福の本質です。永遠の真理、私達がバガヴァーンやパラブラフマンと呼んだりする存在、またはニルヴァーナの状態やジャイナ教の神の王国であるシッダアヴァスタ、もしくはエホヴァ、アラー、アフラ=マズダ、道教の最高の道、まばゆい光の世界、または禅の悟り、どんな風に呼ばれていても関係ありません。究極の状態とは、完全なる至福の状態です。そこでは、人類が創造されて以来に生じた、あらゆる探求が満たされます。100%、絶対で完全な至福に満たされるのです。

 この不完全で不幸せに満ちた世界の中で
 私を崇拝しなさい (BG 9章33節)

 この重要な節で、クリシュナ神はアルジュナにヒントを与えて下さいます。
「良く見なさい。あなたの周りの世界は、私の力によって生じた幻影(マーヤ)もしくは自然現象(プラクリティ)でできている。全てのものは、とても魅力的で人を惹きつける力を持って作られた。もしこのような世界で魅惑的な対象物を楽しみたいのであれば、毎日楽しめばいい。けれども、それらに囚われて本来の目的を失わないように注意しなさい。あなたの人生のゴールは私だ。あなたの存在を私としなさい。私と共になる為に生きなさい。どんな日々の生活を営もうとも、それらは補助的なものだ。この世に生を受けたのはその為ではない。もっと偉大なるものを勝ち取る為に、永遠の栄光の継承者として生まれてきたのだ。何故ならあなたは私の一部だからだ。ここでまた教えを説こう。」

 私が創造した3つのグナから構成された聖なる幻から
 簡単に抜け出ることはできないであろう
 ここから解放されるのは私を崇拝する者だけだ (BG 7章14節)

 「私の創り出した幻はとても難しく手強い。しかし、私に全てを委ねる人は、その現象世界という幻(サムサーラ)の大海をたやすく渡り切ることができるだろう。まるで牛の足跡の後にできた水たまりを一跨ぎで飛び越えるように、いとも簡単に。それにはただ単に『私をあなたのゴールに定めれば良いのだ』。」

 あなたの義務を果たしなさい。しなければならない職務があれば、それを行いなさい。しかし、あなたの一番の責務は、神聖なる運命に沿って生き抜くことであり、それは本来の自分についての知識を得ることです。それらは神様のご加護や光など、いろいろな形で現れることでしょう。

 グルデヴ·ラビンドラナータ·タゴールの父で有名なマハリシ·タゴールの人生に、その光は考えられないような形で現れました。彼は川を渡る為、渡し船の乗り場に向かいました。船は、何人かの人を乗せて対岸へと離岸したばかりだったので、彼はそこで船が戻ってくるのを待つことにしました。日頃からいろいろなことを神秘的に捉える癖があった彼は、風に吹かれて埃や枯葉と一緒に足元に舞い降りてきた一枚の紙切れを拾いあげました。何気なくそのボロボロになった紙を広げた瞬間、神様の恩寵が訪れたのです。そこにはイサヴァシャ·ウパニシャッドの最初の節が書かれていました。

 全てのこと
 この世の中で動くどんなもの(そして動かないもの)も
 神様によって守られています
 (宿ります。一面に広がっています。包まれています。覆われています。)

と、ベンガル語の翻訳も書いてありました。デヴェンドラナータ·タゴールはこの文章を読んだ瞬間、素晴らしい閃きを得ました。その瞬間に彼の人生は一変し、心の中で眩い光の夜明けが始まったのです。それまでとは打って変わり、今まで対象物として見てきた世界が、ただの無機質な物質で満たされていると思っていた宇宙が、一瞬にして変わりました。この節を読み、さらに再読して顔を上げた瞬間、彼の心や知性を覆い隠していたベールが取り除かれ、何ものも物質や無機質なものではないと理解したのです。

『イーシュワラ·タットヴァ·オタプロタ(全てが至高の真実です)』

彼は、あらゆることを神聖なるものと見られるようになり、目に映る全てのものの中に神性が現れているように見えるようになりました。この時を境に彼は悟りを開きました。

「私は神様の中にいて、神様は私の中にいらっしゃる。神様と私には何の違いもありません。このことを今の今まで理解してませんでした。今までもずっと神様の中で生きてきていたのに、この歳になるまでそれを認めることができませんでした。」

 この世の全てが、いろいろな光に照らされて彼の前に広がっていました。神様は、このように彼の人生に現れ、彼に影響を与えました。あの風を吹かせ、デヴェンドラナータ·タゴールの足元に宇宙の真理をもたらせたのも、神様のお恵みでしょう。

 神様からの恩寵は、聞いている講義や読んでいる本、もしくは偶然耳に入ってきた誰かの会話という形でもやってきます。どんな形であれ、そのようなお恵みがあなたの人生にやってくると、ただの彷徨う魂から探求する魂へと変容させてくれます。彷徨う旅人の魂は、行き先も分からないまま、他の多数の人が行く道をただ付いて行くだけです。そして周囲の人々の行動パターンに巻き込まれていきます。それはあなたのお父さん、お祖父さん、曾祖父さんから受け継いできたようなもので、疑うことなくただ真似をしているだけの人生になります。しかし、神様の恩寵を受け取り目覚めると、

「そうではありません。私は明確な目的を持って、この生を受けたのです。私には達成しなければならない確然たるゴールがあります。」

と気付くことができるでしょう。人生を営む目的とは、明確な達成と成就の為なのです。それでは、その明確な達成と成就とは何なのでしょうか? 宇宙の源、永遠の存在、そして自身の根本または起源と、自分自身の真理と永遠の関係性に気付くこと以外ありません。肉体的、精神的、心理的には、私はもちろん人間として一個人であり、一人の人間として家系の一部でもあります。しかし、この個性を持ち合わせた人間の中に住まう本来の私は、時間を超越しており、年をとることなく常に若さを保っています。本来の私は、この物質的な世界には属しません。この私の源は神様です。私は神様と一体です。神様は私にとって、始まりであり、中間であり、そして終焉です。神様の中だからこそ、私は存在し得るのです。神様の中で私は人生の全てを過ごし、偉大なる宿命の達成の為に、意識しながら努力し続けなければなりません。だからこそ私は、目的を持って生まれてきたのだという自覚と意識を絶対に忘れてはいけません。人生は、偉大なる運命を成就させる黄金に輝くチャンスであり、その運命とは自己の智慧(アートマ·ギャーナ)です。この宿命とは、絶えず変化し続ける名前や形の世界の裏に隠れている、不変の実在に気付くことです。この世の中の全ては、一時的なもので、やってきては消えていきます。しかし、そこには決して変化しない存在があるのです。束の間の一時的な状況の中に永遠の真理が隠れており、それを見つけるという輝ける好機が、私に与えられているのです。

 至高なる神様の存在を知り
 それを全ての存在の中に見出す人は
 全てが終焉を迎えたとしても終わりを迎えることはない (BG 13章27節)

 永遠ではない顕現した世界の中に永遠の存在を見られる人は、本当に見ることができているということです。

 常に変化を繰り返す名前や形の背後には、絶対なる至福という真実が覆い隠されています。それらの裏側には、気付きや意識といった啓発的な法則が存在しており、それが完全なる至福の真髄とも言えます。絶対なる至福という真実こそが、私の目的です。私は覆いを払いのけて、この偉大なる真理を突き詰めなければならないのです。

 この気付きは、すでにあなたに与えられているので、物質界にいるあなたを強力な情熱で駆り立てるでしょう。「私は真理を理解しなければなりません。その為に、神様は私に人間としての生を与えて下さったのです。神様がお創りになった人間であるからこそ、考える力や感情があり、理由を見つけたり、理解したり、研究や分析をして、最終的に悟りを体験することができるのです。神様の創造された全ての生きとし生けるものの中でも、私は独特な存在であって、その独自性を証明しなければなりません。私は知性と心、魂を使って実現しなければならないのです。」

 これは覚醒、もしくは外見だけの肉体の次元や推論上での心理的な次元を超えた、高次元への気付きとも言えます。推論上と言ったのは、誰も心というものを見たことがないからです。心はただの概念に過ぎず、通常、思考の過程は、心の現象として知られています。

「私は考える。私は思い出す。私は計画する。私は想像する。私は熟考しようとする。」

これらが可能なのは、見えない心が働いているからだと考えられます。推論から言うと、あなたは自分では見たこともない自己の人格の中にある力の存在を信じているのです。誰も「ほら、これが心というものだよ」と取り出して見せてくれたことはないでしょう。でも、脳は見たことがあるかもしれません。近年の発明による超科学や科学の進展により、今まで隠れていたものを見ることができるようになってきました。しかし、心の動きというものは、未だ見ることはできていません。α波やβ波に表されたグラフなどは見たことがあるかもしれませんが、それは脳の活動に過ぎません。心は未だにとても神秘的なものなのです。

 全ての存在の中に理解力として存在しておられる女神様
 あなたを心の奥底から讃えて崇めます (Durga Saptashati)

 誰も見たことがなく捉え所の無いものであるにも関わらず、心は全てであるとも言えます。あなたがあなたである基礎を作っているものであり、思考力、動機、記憶力、将来を予期する力、計画力、想像力などの力を与えてくれているのも心です。これら驚くべき複雑な能力の全ては、神様から与えられたものであり、だからこそ、あなたは人間として存在していられるのです。これらの力を与えられたからこそ、

「私の中に何かが在り、それは存在するなどと知る由もなかった次元のものです。世の中には、その次元を体験した人、さらにその次元を超えて自己の奥深くにある真理を知った人もいます。」

と考えることができるのです。このような知識に巡り合えるのは、あなたが探求している魂だと言う証で、解脱や精神知識に対する熱望は神様からの贈り物なのです。

 その結果、聖なる運命を持ち地球を辿る旅に来ている他の人達と同じように、特別な部類に所属することができるでしょう。人生には、地球の次元を超える聖なる目的が存在します。そして人生とは、痛みを伴う経験に満ちた地球上の生活から解放され、至高の状態に到達できるように、神様が与えて下さった素晴らしい贈り物です。この地球での人生とは、神様からの祝福を受け取ることができる最上な至福への階段なのです。人生の中には、救いの望みが含まれています。だから、地球上で過ごす人生に仕組まれた良いことも悪いことも、経験するに値します。私達に素晴らしいチャンスが与えられていることが分かると、問題や痛み、苦しみなど全てが重要ではなくなってきます。それらもチャンスなのだと分かれば、全てに向き合う勇気が湧いてきます。自由で悲しみのない、純粋で輝かしい完全なる解放と至福の状態に向かい、精神が上昇して内的な力を与えてくれます。

「何事にも我慢が必要です。弓から矢が放たれるように、私も標的を絞って真っ直ぐに進んで行きます。自分の人生をこの探求だけの為にしっかりと費やしていきます。決意し、目的を貫き、そして最終的にこの人生で、この生まれ持った肉体で、私は悟りを開きます。」

 重要な真実に向かってのこの探求は、あなたを修行者(サダカ)に成長させます。神様の信者の一人となって、粗雑で大雑把な地球での生活と必然的に生じる複雑さの中で、精神修行(サダナ)を続けていかなければなりません。ここでシュリマッド·バガヴァッド·ギーターの尊い真価が現れます。これは、行為を通じた悟りや完全性、解放の教えの全てを超越しています。愛や祈り、信仰や礼拝を通じて、究極なる存在に到達しようと努力することは、バクティ·ヨーガです。各時代、世界中に存在した多数の宗教の中で、感覚を抑制して心を無の状態にし、集中力を高めて偉大なる真理に焦点を当てる神様への神秘的なアプローチのことをディャーナ·ヨーガと呼びます。しかし、24時間、部屋の中に座り続けて瞑想をすることはできません。空腹があなたを部屋に留まらせないでしょう。もし空腹が突き動かさなくても、あなたの家族がそのような態度を許さないでしょう。

「何をやっているの? 働きに出て生活費を稼いできてください。」

と言われてしまうことでしょう。この状態に追い込まれたラットナカールは、挙げ句の果てに強盗になってしまいました。彼は部族の女性と結婚した後、森の中での快適な生活を望んでいました。しかし妻は

「結婚したのだから、夫であるあなたが生活費を稼いでください。」

と言い張りました。それに対して

「どうやって稼げというのだ。私は君の部族には属していないし、猟の仕方も知らないのだぞ。」

と答えると、

「それはあなたの問題でしょう。とにかく外に出て、なんとか稼いで来てください。」

と妻に言われたのでした。

 シュリマッド·バガヴァッド·ギーターの第3章5節で、クリシュナ神が教えを説きます。

「人間として顕現した存在にとって、行為を起こさないでいることは不可能である。」

行為とは激質(ラジャス)の一部であり、それによって私達は行動します。もし、その行為が欲望や自己中心的な目的、無知によって引き起こされたとしたら、それはあなたを縛り付けるでしょう。しかし、智慧を持っていれば、『私はただ観察しているだけだ。行為は五感の組み合わせでただ生じているに過ぎず、私はそこには含まれていない。私はそれとは違う次元、違う真実に属しているのだ。だから、私の肉体が行為を行っていたとしても、本来の私が行為を起こしている訳ではない。』と考えられます。この真実を知れば、行動を起こす時に自分がそれをしている人という行為者の感覚がなくなり、その行為に縛られることがなくなります。シュリマッド·バガヴァッド·ギーターは、この行為に関する技術を解説している特に優れた聖典です。もしあなたがこのスキルを持って行動を起こすことができれば、どんな行為によってもあなたは束縛されることはありません。

 至高の存在だけをあなたの人生の目的としなさい。そうすれば、他のつまらないものに対しての欲望は消え失せていくでしょう。行為から欲望が取り除かれると、この世の全ての物は無価値だと分かります。何故なら物質には、この肉体の欲求をすぐに満たすという利益を重んじる意図が含まれているだけだからです。例えばとても寒い日、あなたはセーターを着たいと思うでしょう。しかし夏が来たら、そのセーターは不要になるどころか不快をもたらします。この世の全ての物は、それ自体に本質的な固有の価値を持ち合わせてはいないのです。それが分かると、外側にある何物もあなたを魅了することはできなくなるでしょう。そしてあなたは、やらなければいけないことを行動に移しますが、それらに執着せず人生を受け流していく姿勢を保てるようになります。この世の中で生活しながらも世の中に巻き込まれずにいるという教えが、バガヴァッド ·ギーターで説かれている哲学の核心です。

 マハトマ·ガンジーが南アフリカから帰国すると、アーメダバードのサーバルマティ川の川岸に落ち着き、アシュラムを開きました。彼はシュリマッド·バガヴァッド·ギーターの尊い教えに大いに影響され、それをグジャラート語に翻訳しようと決意しました。最初の翻訳版には、『アナシャクティ·ヨーガ(結果を求めない)』と題名を付けました。シュリマッド·バガヴァッド·ギーターではなく、執着しないヨーガ、そして無執着の精神で人生を送れるようにとの意味を込めてアナシャクティ·ヨーガと名付けたのです。スワミ·ヴィヴェイカナンダの偉大なグルであったシュリ·ラーマクリシュナ·パラマハムサ·デーヴァは

「もしあなたが、クリシュナ神の教えは何かと私に聞くのであれば、それは放擲(ティャーガ)だと私は答える」

と言いました。彼は普通の村人だったのですが、こうも言いました。

「一つ教えてあげよう。あなたがマーラという言葉を繰り返し唱えたとしよう。するとそれはいつの間にかラーマとなるはずだ。同じようにギーターという言葉を繰り返してごらん。あなたは最終的にティャーギと繰り返している自分に気付くだろう。」

ティャーガはギーターの教えの中心です。物質に対しての全ての欲望や執着を断念し、あなたの心を根本的な至高の実在だけに定めて生活していると、どんな行為をしてもそれら通じて完全なるものに到達することができます。

 自分の義務として神様を崇拝する人は
 悟りの境地に至る (BG 18章46節)

 究極の啓示であるギーターの知識による導きは、あなたの人生に沿った自己義務(スワダルマ)を行為をしているという感覚抜きに行うことであり、第18章で最高点に達します。そしてこの世の何物にも執着しないことで、あらゆる行為があなたを輪廻転生のサイクルから解放してくれます。そしてシュリマッド·バガヴァッド·ギーターの最初の章と最終章に、とても類似した点があることに気付くでしょう。

開始の章でアルジュナは言います。

「絶対に間違っています! 私の目の前にいる親類縁者や血族の大虐殺や大量殺戮は、大変な罪です。クリシュナ神よ、私に何をしろとおっしゃるのですか? 世の中全体の混乱と困惑を招くだけではありませんか。」

 恐ろしい罪を犯す為に準備するとは
 なんという苦しみか (BG 1章45節)

「絶対に無理です。私には戦うことができません。自分の親類縁者や血族を虐殺するくらいなら、兵士としての義務を拒否して、物乞いの椀を持って托鉢をしながら彷徨い歩き回る方がいいに決まっています。」

このようにアルジュナは、血塗れになる争いで自国の王座を勝ち取るよりも、自分の義務を断念することを決意します。

 そして第18章では、アルジュナはこう質問をします。

 放棄と放擲の本質と真実について
 深く学びたいと願います (BG 18章1節)

 「サンニャーサとティャーガの本質を教えていただけませんか?」

アルジュナはまず初めに、全てを放棄し出家者になると言いました。しかし、第2章から第17章にかけて説かれたクリシュナ神の智慧に基づく教えを聞いた後、自分は何かを間違って理解していると感じたのです。自分が放擲(ティャーガ)や放棄(サンニャーサ)と思っていた考えが正しくないかもしれないと分かると、

「クリシュナ神よ、お願いです。ティャーガとサンニャーサとは何を指しているのか教えてください。」

と、最終的な要点である疑問を口にしました。これらは、似ているものでもあり、途方もなくかけ離れた存在のものでもあります。第1章では、妄想(モーハ)に完全に圧倒さたアルジュナは「私は戦えない」と弓を下ろし地面に座り込んでしまいました。そこからクリシュナ神は、アルジュナを確信させる教えを始め、第18章の最後には、この同じアルジュナが究極な真理を結論付けたのです。

 クリシュナ神のお恵みから
 自分の記憶に埋もれていた知識を得たおかげで
 私は自分の妄想から抜け出すことができました
 全ての疑問は解消され
 あなたの御言葉に沿って生きていきます (BG 18章73節)

「私の妄想はなくなり、今私は、あなたの忠告に従う準備ができました。あなたの言うことに従順に従います。」

このことから、現在の私達にとって一番大切な節は以下となります。

 ヨーガの神様であるクリシュナ神が存在する所には
 弓を巧みに操るアルジュナがおり
 繁栄と勝利、幸福と堅固な心情もが
 存在することを私が宣言しよう (BG 18章78節)

ギーターを語ったサンジャヤは、最後にこう締め括ります。

「神様の教えに従って従順に生活をしていれば、智慧によって自然と導かれていきます。言われたことを進んで行動に移し、受け取った智慧を道具として活用していくと、そこには成功、勝利、栄光が宿り、そして正しい行いを遂行する強さが生まれます。これは疑う余地のない確実なことです。」

 私達は、他の16章に渡り書かれているギーターの真髄が要約された、第18章の素晴らしい啓示を詳細に渡って学ぶべきです。人類に永遠の教えを与えてくださった神様に感謝をしましょう。そして私は、ただの巡礼者としてではなく、本当に魂を探し求めている皆さんに、この事実をお伝えできることを栄誉に思います。

 皆さんに神様のご加護ありますように。

 皆さんの探求が成功し、神様からの祝福と啓蒙を受けますように。

  Hari Om Tat Sat


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