金沢駅近くの神社から垣間見る源平 〜平岡野神社〜
金沢のシンボルとして、有名な金沢駅。
鼓門のある兼六園口と反対側から出ると、広場があり、周りにはオフィスビルが並びます。
でも、ここから左へ曲がって高架沿いにほんの2、3分歩くと、神社があります。
平岡野神社の珍しい社殿
平岡野神社です。
まず、お清めしてからお参りへ。
屋根の下の懸魚の彫刻に桜があります。
さらに、屋根の上の瓦の模様も桜です。
この辺りでは、桜の瓦を見たことがなかったのでかわいいなあと眺めます。
水平の横木を支えているのは、よく見ると蟇股でなく、シンプルな板。
強度の補強のためか、両側にさらに仏像の台座のハスを連想させる装飾のある部材があります。
これも、あんまり見たことのない形式です。
釘隠しも、かわいい桜。
本殿はいつ建てられたのかなと石碑を見ると、
「明治9年に修理の後・・・傷みがひどく・・・改修工事を実施した」
とあり、江戸時代以前に建てられた可能性が大です。
両端には、霊獣のバクの彫刻。
装飾彫刻技術の発展した江戸時代ぽさを感じます。
源平の戦も見てきた神社
神社の由緒を見ると、歴史は古く、桓武天皇(737-806)の勅命で建立され、七堂伽藍がそびえて美を極めたと書かれています。
飛鳥時代に建立された法隆寺のように、金堂、講堂、五重塔に経蔵、宝蔵など立ち並んでいるのを頭に描くと、残っていれば!と思ってしまいます。
もちろん、都に国家の権威を示すため作られたこれほどの規模ではなかったとは思いますが。
残っていないのはなぜか?
江戸時代のイメージが強く、それ以前で教科書に出てくるのは一向一揆のみという金沢の歴史。
でも、伽藍が残っていない理由は、一揆でも江戸の火事でもなく、源平合戦です。
わたしも、驚きましたが、源平合戦でこの神社が源氏方の陣地となっていました。
『源平盛衰記』に、「加賀の国平丘野の木立林に陣を取り、威勢のいい源氏の白旗を高く押し立てました」とあります。
この「平丘野」が、平岡野神社のあたりの地名でした。
平氏は、宮越、佐良嶽(今の金石)に陣取り、神社は、その合戦の兵火を受けて、伽藍がなくなってしまいました。
石川県で有名な源平合戦といえば、倶利伽羅峠の「火牛の計」のです。
でも、金沢でも源平合戦は行われていました。
鎌倉時代以降
鎌倉時代には、守護の冨樫氏の崇敬を受けていました。
その後、足利尊氏が北陸巡業の際に、愛染明王図絵塔婆を奉納して武運を祈願したともあります。
この愛染明王図は、鎌倉時代末期の作品として金沢市指定文化財になっています。
平岡野神社は、もともと平岡山顕證院という神仏習合の寺院でした。
そのため、明治の神仏分離の際に、この愛染明王図は、「仏」ということで、他の仏像と一緒に近くにある放生寺に預けられました。
放生寺は、今もすぐ近くにあります。
平岡野神社は、顕證院という名前だったので、江戸時代の地図を見ると、確かに「顕證院」とあります。
北廣岡村にあったので廣岡山王社とも呼ばれていました。
宮越往還(現金石街道)から、放生寺を通り平岡野神社へ行く山王道は、日吉町と呼ばれていました。
※金石は、先の源平合戦時に平家が陣地としたところです。
ほとんどが鉄道ができて高架下になったということですが、古今金澤アプリで見てみると、日吉町と出てきます。
金沢駅は、明治31年(1898年)に開業しています。
明治33年(1900年)の地図を見ると、神社の近くに堂々と金沢駅ができています。
江戸時代の地図で、神社は街外れにあり、後背地には何もありませんでした。
明治に入ってもまだ、周りには畑があり、現在の金沢駅周辺とは全く別の風景が広がっていたことが分かります。
ここから、金沢駅がどう変わってきたのか興味のある方は、こちらをどうぞ。
江戸時代の話に少しずつ戻ります。
平岡野神社には、加賀獅子の獅子頭が保管されています。
加賀獅子は、金沢の伝統芸能で江戸時代後期に盛んになりました。
獅子舞は、お祭りの華です。
平岡野神社の獅子頭は、矢口の大獅子です。
「加賀の平賀源内」と称される発明家、大野弁吉が手がけました。
5月に春祭り、10月に秋祭りがあります。
平岡野神社で、源平から江戸時代の加賀獅子まで重層的な金沢を感じられます。
また、放生寺の春季彼岸会は3月21日。ちょうど来週です。
愛染明王図は、今では県立美術館で保管されています。
でも、もともと山王社、平岡野神社の仏像として祀られていた愛染明王仏は現在もお寺にあります。
まずは春のお彼岸に、金沢の時間旅行を始めるのも楽しそうです。
参考
「稿本金沢市史 寺社編」
「こども金沢市史」
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