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遊郭とラブホテル

 もともと建築写真を撮影していたこともあり、撮影場所が屋内のときは、建築的な意匠に目が行ってしまう。
 2018年は、いわゆる「昭和ラブホテル」を主な撮影場所に選び、昨年は遊郭や赤線、青線の跡地を選んできた。どちらも性に関する場所で、そういう場所ならではの共通点に気がついた。
 
 大きな特徴は、「空々しい非日常感」だ。
 
 昭和のラブホテルは、室内にギリシャ神殿の柱のようなデザインが施されていたり、必要以上にロココだったり、あるいは大奥をイメージしたゴージャス和室だったりで、いずれもそこそこお金がかかっていたことを伺わせる。
 だが、そこにあるものは赤坂の迎賓館や、上野の国立博物館、あるいは品川プリンスホテルの貴賓館のような「本物」の西洋風ゴージャスとはまるで異なる。
 実際にそういう建築を手掛けたこともないようなデザイナーが見様見真似で作った「エセゴージャス」なのだ。
 そういう空々しさが、遊郭にも感じられる。
 確かに豪華な、費用のかかった建築物であることには間違いないのだが、その豪華さはなぜか虚ろな煌めきを感じさせるのだ。

 その虚ろなゴージャス空間は誰のために作られたものなのだろう。
 セックスをお金で手に入れる男たちに一時の夢を見させるためのものだったのか。昭和のラブホテルもそうだったのだろうか。

 生まれて始めて入ったラブホテルは、壁一面が鏡になっていて、そこにエセロココな絵が描かれていた。バスルームはガラス張りで、ベッドから浴室内が丸見えだった。そんな空間で自分の身体を開くことがとても不潔なことに思えた。
 一緒にその部屋に入った相手は当時付き合っていたボーイフレンドで、優しい彼は、そんな私の気持ちを察してか、身体には触れずに、時間が来るまで二人でうつむいたまま会話をしながら過ごした。 

 私は、ラブホテルで眠るのが嫌いだ。眠る空間としてはふさわしくないと感じるからだ。ラブホテルの部屋は、かりそめの恋を楽しむためにはいいのだが、そうではない相手とだと、どうも落ち着かない。
 余談だが、常にセックスだけのパートナを切らさない知人(男)が、あえてラブホテルにしか行かないと言っていた。そういう相手と食事にすら行くのが嫌で、ラブホテルの駐車場で会って、別れるときも駐車場で別れるのだそうだ。
 風俗嬢でもないのに、そんなふうに扱われる女性の身を思うと、とても嫌な気分になるエピソードではあるが、その心理はわからなくもない。

 セックスのための空間に漂う非日常感は虚飾に満ちあふれている。
 不実な恋。肉欲と金銭を引き換えにした交わり。本音と建前の使い分け。
 一見ゴージャスに見える装飾の裏にある哀しみや矛盾。そんなものを感じるから、そういう建築物に惹かれてしまうのかもしれない。

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