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人が、人を、人として扱わない恐怖

 今日もまた、SNSに「裸がみたい」「オ○ンコ見たい」というメッセージが来る。
 私のやっていることは「パロディとしての昭和エロ」なので、アウトプットがエロであることは間違いないのだが、エロを表現としてやっている女には、セクシャルなアプローチをして構わないのだと考える人が少なくないことには辟易する。
 こういうメッセージの何が不快かと言うと、メッセージの送り手に、ディスプレイの向こうに生身の人間がいるという実感がないことだ。彼らにとって、私は2次元にしか存在しないもので、私に感情があるとか、人として生活していることを想像しない対象なのである。つまり、彼らにとって私は人間ではなく、単なる「モノ」なのだ。

 先月、岡村隆史さんの「お金に困った女の子が風俗に流れてくる」という内容の発言が大炎上しした。私も岡村さんのあの発言には不快感を覚えた。あの発言と、こうしたセクハラには共通点がある。
 それは、彼らが人を人として見ていないということだ。

 現実世界でのセクハラや痴漢もそうなのだが、セクハラというのは、加害者が被害者を人間として尊重しないから起こる。
 立場を利用して、肉体関係を求めたり、混雑している電車で見知らぬ女性の身体を触ったり、SNSで会ったこともない相手に性器を見せろというメッセージを送ったり。こういうことを「自分より上の立場」の相手にするかと言ったら、間違いなくやらないだろう。
 セクハラの不快感というのは、単にゲスな言葉を投げつけられたり、体を触られたりすることに対する不快感ではなく、自分が人間として扱われていないということに対する不快感なのだ。

 男性は、普段の生活の中で、女性ほどセクシャルなことで嫌な思いをする機会は少ないだろう。だから、自分の身に置き換えて考えてほしい。自分が人間として扱われていないと実感することの恐怖を。自分の人権を蹂躙して、相手が笑っているということがどれほど恐ろしいことなのかを考えていただきたい。

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