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コーヒーもう一杯

 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した時、なるほどなあと思いました。
 「風に吹かれて」……たしかにあの歌詞は文学と言っていい。
 その歌の英語の歌詞を、辞書を引き引き書き写した時の私は中学生だったでしょうか。心を打たれました。
 いくつの海を渡れば 白い鳩は砂の上で休めるのか
 いくたび大砲の弾が飛べば 永遠にそれがやむのか
 いくたび人は顔をそむけて 見えないふりができるのか
 いくつの耳を人が持ては 人々の嘆きの声が聞こえるのか
 友よ その答えは風に吹かれている

 その後、彼がどれだけの歌を創り出したのか知りませんでしたが、一つの歌だけが心に残っています、「コーヒーもう一杯」。女性の声にからんで、旅立つ前にコーヒーをもう一杯、と歌うのです。前奏間奏のバイオリンの音が美しいので、ディランの悪声が気にならない!
 彼がノーベル賞を獲得したあと、ミュージックショップの棚には彼のCDがいっぱい並びました。一枚ぐらい買おうかと思いましたが、知らない歌だらけでわからない。「コーヒーもう一杯」の入っているCDをようやく見つけて買いました。
 ディランは、レコード制作の時にスタッフを悩ませるという気まぐれと言い、ノーベル賞受賞の時のひねくれたコメントと言い、傲慢で気難しい人間なのだろうと思っていました。

 先日YouTubeで、「We Are The World」のメイキング映像なるものに出くわしました。
 それは、エチオピアの飢饉に際して、1985年に米国の一流歌手たちが集まってレコードを制作し、その売り上げを寄付したチャリティ事業です。マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが作曲した歌を、趣旨に賛同した歌手や演奏家が集合して、ある一晩で録音して造り上げたものです。45人の歌手がコーラスし、それをバックに、スティービー・ワンダーやダイアナ・ロスなどのトップシンガーが、一節ずつソロを取って歌い継いで行きます。その収録風景で、あれこれ議論しながらリハーサルし、収録をくりかえし、夜も明けそうになるのです。
 床に座り込んだり、柔軟体操をしたり、「フィッシュバーガー食べたい!」と叫んだり。それから突然誰からともなく、「バナナボート」を合唱し出すのです。その企画の提唱者であるハリー・べラフォンテへのトリビュートなのですが、それは夜通しバナナを船に積みこむ労働者の歌で、「早く家に帰りたい」と言う歌詞が繰り返されるのでした。

 ボブ・ディランも参加していました。ソロを取る予定ではなかったのですが、プロデューサーのクインシー・ジョーンズが、「ディランの歌がほしい」と言い出したのです。
 ディランは当惑していました。「どう歌っていいかわからない」と言うのです。「君の歌い方でいいんだ」と言われてもためらっています。彼はシンガーソングライターですから、人の作った歌を歌えといきなり言われても困るのでしょう。
 するとスティービー・ワンダーが、キーボードを叩きながら、「こういう風に歌ったらいいよ」と、みごとに「ディランの歌い方」を真似て歌ってみせたのです。
 その後しつこく練習を繰り返して、本番でディランが歌ったのはスティービーの歌いかたとそっくりでした。ディランがスティービーを真似たわけではなく、スティービーのディラン節が巧みだったのでしょう。
 なあんだと思いました。要するにディランってシャイなんだ。急に彼が可愛く思えました。その後たった一枚のCDを繰り返し聴きました。コーヒーの歌以外もみんないい曲でした。
 

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