『シャーマンキング』の「正義」と、中学生の私
『シャーマンキング』という少年漫画から私が受けた影響について考えてみました。特に「正義」という言葉についての、この作品に出てくるX-LAWSという集団に属するキャラクターの言動や立ち位置をもとにした理解について振り返ってみました。
あくまで中学生当時の自分の受け取り方を、ほぼ15年たった今振り返るという文章なので、作品への理解が正しくないかもしれません。(と思って終盤の巻を読み始めたら止まらなくなりました)また、謝った記憶に基づいて書いている箇所があったら申し訳ありません。適宜、単行本を読み直しながら修正します。
『シャーマンキング』は、集英社が発行する『週刊少年ジャンプ』で1998年から2004年にかけて連載された、武井宏之氏作の漫画です。この作品における「シャーマン」は、「この世とあの世を結んで、神・精霊・死者の霊なんかと交流する事ができる不思議な能力を持った人」です(単行本1巻背表紙のあらすじより。)相棒である霊(持霊と呼ばれます)を特定の物に憑依させ、霊の力と、シャーマン本人の力によって武器を具現化して戦います。神様や精霊を従えるシャーマンもいます。
シャーマンの王を決める「シャーマンファイト」がお話の中心です。その戦いに、人類を滅ぼしシャーマンだけの王国を作るという野望を持つハオが現れます。主人公の麻倉葉はシャーマンファイトに参加し、ハオの野望を食い止めるために戦うのです。
私は小学生のときに当時放映されていたアニメからこの作品を知り、原作コミックスも集めてそれなりに熱心に楽しみました。バトルのかっこよさや、霊と一緒に戦うという設定、様々な宗教の要素を取り入れた世界観が魅力的だったのはもちろん、登場人物の語る言葉にとても惹かれました。
主人公の葉は口癖は、「なんとかなる」。ひょうひょうとした振る舞いで、色んな人や物事を受け入れたり受け流したりする姿が、10代前半の少女には大変魅力的に移りました。中学校に上がって、それなりに人目を気にして緊張しながら過ごす私にとって、葉の姿勢は憧れでした。葉の考え方や、「楽に生きたい」「楽に生きられる世界を作りたい」という夢に感銘を受けたことを覚えています。
12、3歳だったので、世の中のことがなんとなくわかったような気になる頃だったのかもしれません。当時の私は、自分の身の回りの人間関係を眺めることから得られた知見を、世の中の真理のように解釈していたのだと思います。
例えば、「陰キャ」と呼ばれるクラスメートをいじって笑いをとる嫌な子は、クラスでは人気者である。私を嫌って意地悪な視線をよこす子は、部活動では慕われているらしい。
一見矛盾した状態に悩むのも辛いので、いろいろ考えて「誰かにとっては嫌な人でも、他の誰かにとっては大切な友人なんだ。そういうものだ」と発見します。至極普通のことですが、当時の私にとっては大事な考え方でした。そして、一方的に正しいことってないんだな、何事も決めつけることはできないんだ、という理解を手に入れます。
が、私自身が達観したおおらかな人間になれたかというと、別にそういうわけではありませんでした。理解したような気になったところが一番面倒です。
さて、強大な力を持つハオに対抗する勢力の一つがX-LAWSです。メソポタミア文明の神、シャマシュを持霊とする聖少女アイアンメイデン・ジャンヌをリーダーとした集団。メンバーは皆、ハオに大切なものを奪われ復讐のために集った人々です。そして、彼らはハオを「法と秩序を乱す悪の元凶」、自分たちを「秩序を守る正義」であると位置づけます。
A-LAWSのスタンスを表す象徴的なキャラクターは、実質的に彼らをまとめるマルコです。誰よりも規律を重んじハオを憎む彼は、端正で知的な容貌に反して、自分の考えに逆らう言動にはすぐに激高し、規律に反するメンバーを折檻することさえします。
全員白い制服を着用し、決ったポーズで「エックス!!」と叫ぶ異様でやや滑稽な集団としても描かれます。
この「正義を標榜する人達」の描き方が、私の「正義」という言葉の理解に大きな影響を与えます。
今思えば、これはいわば「カギカッコつきの正義」です。でも、私のなかで彼らのふるまいや信条と、「正義」という言葉が強く結びつきました。
何事も決めつけることはできないんだ、という思想を握り締めた中学生は、「正義」は悪を一方的に決めつけることで生まれるものなんだと理解しました。
お話の終盤、実はアイアンメイデン=ジャンヌはただの天涯孤独な少女で、マルコと、彼の育ての親ラキスト・ラッソに見いだされ、聖少女に仕立て上げられただけということがわかります。さらに、彼らが持霊としている「天使」も、実は車の精霊であることが明らかになります。
規律・懲罰・憎しみ・かたくなさ・滑稽さ・嘘。「正義」の正体。
作品の中では、「X-LAWS=正義の象徴」として描写されているのではなくて、「何かを悪であると決めつけて、正義を標榜することの危うさ」が描かれているのだと思います。先ほど書いた「カギカッコ付きの正義」とはこういうことです。作品中でも、自分に逆らうからといって殺してしまってはハオと同じ、そんなのは正義じゃない、と繰り返し語られます。なので、私の理解は微妙にズレていたということになります。
では正義とは何か、は多分、多分ですが、言われていなかったと思います。
葉は、正義でも悪でもない立場を貫きます。「悪」と呼ばれたハオに対しても、彼の中にある寂しさを理解します。あらゆる思想を越えて、あるがままの心で総てを受け入れる葉。
今の私にとっても、葉はかっこいいです。「みんなが楽でいられる世界」という目標も、今でもけっこうしっくりきます。
でも、今は私の中の「正義」という言葉への理解は替わりつつあります。
誰かの決めつけで生まれた「カギカッコ付きの正義」だけじゃなくて、あらゆる人にとっての普遍的な「正義」も、あり得るんじゃないかなあ。
というか、そこを追求することも必要なんじゃないのかなあ。
ツイッターで時々つぶやかれてはたくさんリツイートされる「正義の反対は悪じゃない、別の正義だ」というフレーズを思い出します。このフレーズが典拠となっている作品で語られる文脈を私は知らないので、間違っているかもしれないのですが、「そうかもしれないけど違うんちゃう」と思います。
もしこのフレーズが、戦争や政治対立について語られる文脈に置かれたとしたら、やや強く、「そうかもしれんけど違うやろ」と思います。戦争を起こした人間が、その理由として「正義」という言葉を標榜したとすれば、それは他の色々な理由を覆い隠そうとする、「カギカッコ付きの正義」だと思います。
今でも「正義」という言葉は好きではなくて、できれば葉のようになりたいんですけど、「どっちもどっちでしょ」といって格好付けた気になるのはいけないな、と思うようになりました。葉の在り方は「どっちもどっち」というのではないでしょうし。
まだ自分でもよくわからないのですが、とりあえずこんな感じで、振り返りを終わります。
『シャーマンキング』はお話の途中で連載が打ち切られてしまいました。のちに出版された完全版に、完結篇が収録されます。でも実は、私は単行本は最後まで読んだのですが、完結篇はまだ読んでいません。
そして今、私の眼の前には打ち切り後から最終話までが収録されている、完全版の26,27巻があります。
先日この記事を書くにあたって単行本を軽く読み直したところ、最後が気になってしまい、ついにネットで注文したものが届いたのです。でも、最終話を読んだら作品に対する理解が変わってこの文章が書けなくなる、と思って自主的なお預け状態になりました。
少年漫画はたのしいですね。
読んでくださってありがとうございました。
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