ヒハマタノボリクリカエス 7

「う・・・ん・・」
 彼がやっと反応を示した。どうやら覚醒しつつあるみたい。私はさらに大きな力で彼の体を揺すった。
 すると、彼の顔が見えて、薄く目を開いた彼と視線が合った。

 あ、あの彼だった。
 あの病院で見た、気になっていた彼だった。
 混乱していると、彼は私の背中を右手でたぐり寄せ、抱きしめた。
 思考回路が一瞬停止した。
「ちょ、ちょっと待って、やめて」と大声で叫ぶ。
「ん?あ、ああ・・・」
 私は寝ぼけた口調のハルの手を振りほどいて離れた。
 離れたものの、胸の高鳴りは止まらない。やめてと言ったけど、やめてほしくなかった?いや、何を言っているミホ。ひどく、ひどく混乱している。
「起きろよ、ハル。もうすぐ夕方だぜ。おやつの時間も過ぎているし」
「おやつ?」
 ハルは毎日おやつを食べているのかな。またしても一人馬鹿みたいになるから聞きたくても聞けない。
「え?もうそんな時間?久しぶりにたくさん寝てしまった。ちくしょう」
 ハルは髪をかきむしりながらゆっくりと起き上がった。
 全員がおはよう、と声をかけた。
 かっこいい。
 そして、かっこいいと思っている自分が何故かくやしい。
 すると、ハルが私に気付いた。
「あれ?この子は?」
「ミホっていうの。俺の友達。ミホ、これがハル。こんな外見だけれど、けっこうこう見えて性格はいいから」
「けっこうって何だよ。あ、はじめましてミホちゃん。ハルです。よろしく。タカシの友達にしてはマトモだな」
 ハルとも握手をした。ここは外国?日本には初対面の友達の友達に気軽に握手を求める文化はないはずだ。
 ハルは上着を脱いでいるけど、スーツを着ていた。
「ミホちゃん、ハルに惚れちゃだめだよ。ホストしているし、苦労するよ」
 すかさずユキが釘を刺した。やっぱりホストだった。かっこいいからさぞかしとても売れているのだろうな。
「おいおい、ホストはあくまでもバイトさ。食っていくため。ああ、酒がやっと抜けた」
 私は、タカシに「ミホが知らない、経験したことのない、俺たちの世界をみせてあげる」そう言われて、今日やって来た。
 外見だけなら、ハル達は確かに話したこともない人達だと思う。タカシは絵の勉強をしているし、あの二人は音楽の道を志しているのもわかった。
 じゃあ、ハルも何かもう目指すものを見つけているのかな。そして、私がまだ見つけていない、生きる意味も。

 みんないい人だった。
 初めて会う種類の人だからなのかわかならいけど、私は話しながらも彼らを心の中で軽蔑しなかった。
 ちなみに、学校のトモダチと喋っていても、近頃は正直何度も死ねばいいのにと、思ったりしていた。
 とにかくみんなの話題がおもしろい。当然、誰の悪口も言わないし、最近どんな服が流行っているとか、誰が誰を好きかなんてクソクダラナイことも口にしない。音楽、絵、ついでにタカシが実はああ見えて進学校に通う秀才で、国立大学を受験する予定だけど、本当は美術の大学に進学したいというのも知った。一人息子で母親を早くに亡くし、親には逆らえないと、タカシは笑った。
 話の輪に入っているうちに、だいたいタカシ達の関系がわかってきた。
 ユキさんとテツさんは私の三つ上で、タカシが本当は通いたい芸術大学の三年生。そしてハルもその大学の三年生。
 ハルって一応学生なのか。
「ハルって学生だったの」
 思わず声に出た。
「学生だよ。どういう風に俺を見ていだ」
「売れないホスト」
「おい、みんな、この子に何か言えよ」
「さあ?ああ、一応学生だったっけ。けど、もうずっとろくに絵は描いていないじゃない、アンタってさ」
 どうやら、ユキはズバズバものを言うタイプらしい。
「そ、それは・・・・」
「もういい加減乗り越えなよ。いつまでメソメソしている。かっこ悪い」
 なんか、険悪なムードになってきた。
「ハルも絵、描くの?凄い、ねえ、ハルの作品見せて欲しいな」
「見せてあげたら?確か二階にあったし」
「えー見たい。見たい。ハル、見てもいい」
「それは無理。ユキ、無理なこと言うなよ。お前、忘れた訳じゃないよな」
「知っているよ。知っていて言っているの。あんた、もったいないよ。過去は過去。過去ばかり見ていないで未来を見なさい」
「あ、ユキさん。も、もういいから。あ、そうだ。じゃあそしたら描いている所みたいな」
 場の空気を和ませようと、精一杯の笑顔を作ってハルにお願いをした。
「何、か」
「いいねえ。ちょうど、ここに俺が使っている画用紙と鉛筆があるよ」
 タカシがそれらをハルに渡した。
 ハルは観念したのか、みんなを見渡した。
「オッケー。じゃあ描いてやる」
「本当?嬉しいよ。ありがとう。何を描いてくれるの」
「せっかくだからミホちゃんを描いてあげなよ」
 ユキがハルにそう提案をする。
 え?私を?ムリムリ。
 勿論、戸惑った。実際そんなの無理だし。
 ハルは天井を見上げた後、紙と鉛筆を持って床に座り込んだ。
 あ、本当に描けるのか。
 気になる。
 すっと息を止めたかと思うと、ハルは静かに右手を動かした。画用紙から目を離さず、一心不乱に描いていく。
 真っ白なキャンパスのなかに、世界が創造されていく。
 彼はもう周りを見ない。ただ画用紙にだけ視線を落とし、鉛筆を走らせる。
 まさか、もう描く対象を確認しないのかと思っていたら、やっぱりハルは一度も顔を上げずに作品を完成させてしまった。
 所要時間は五分くらいかな。
 あっという間だった。
 彼はおもむろに、作品を披露してくれた。
 画用紙の中に、この部屋があった。
 黒い一本の鉛筆だけしか使っていない。
 けど、その世界に驚かされた。

 これがハルの見た世界。
 そこには誰もいなかった。
 ただ、ソファや机、この部屋のものだけがあった。がらんとした、誰もいない透明な部屋。
 けど、圧倒的な存在感。
 私は凍った。
 けど、それは私だけじゃなかった。
 ほかの三人も、凍っていた。
 その時私のなかで生まれた感情は、今までの人生のなかで経験したことがないもの。
 心が激しく動いた。

 私は彼の世界を知ってしまった。

 私のやりたいことって何だろう。

 ワタシノヤリタイコト。
 遊びたい。
 一生困らないお金が欲しい。
 寝たい。

 違う、やりたいこと、だ。
 やりたいこと。

 やりたくないことならたくさんあるのに。
 例えばくだらない勉強、くだらない友達との会話。
 親との朝食、大学進学、その先の就職活動。
 やっていないけれど、アルバイト。

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