ヒハマタノボリクリカエス 9

 今日は病院の日だった。
 病院を出た時、携帯の電源を数日ぶりに入れた。
 連絡が十件。
 こんな私にもまだ友達はいたみたい。
 エリ、ミカ、サトコ、ナミ。
 みんな、私と連絡がとれないから心配しているフリをしていた。
 くだらない。
 当然返信はしない。
 どうせ高校生活が終われば合わなくなる連中だし。そういう連絡の中に、元カレナオキからのもあった。もう勘弁してほしい。
 長文で、私が辛そうにしているのを最近知って、とても心配しているという内容であった。
 今一番この世で会いたくない相手かもしれない。
 タカシからも連絡があった。
 暇だから、またいつでも遊びにおいでという短い文。絵文字やスタンプなんてないが、それが良い。
 タカシ、そしてハルは今何をしているのかな。
 私は人通りの多い道を避け、公園を抜けて駅に向かった。ただでさえ暑苦しいのに、人ゴミなんて私に喧嘩を売っているようなものだ。
 バカみたいな恰好の若い男と若い女がやたらと視界に入ってきた。あ、そうか、もう夏休みか、だからバカが多いのか。納得。ああ、自分の性格って最悪だ。自覚しているけど、直そうとは思わない。そう思うのも最低だ。
 さすがに真昼の公園の人影はまばらだ。
 バカもあまりいない。
 バカな飼い主にこの暑い中散歩させられている犬、奇声を発しながら走り回るガキ、木陰のベンチでいちゃつくバカと、その隣のベンチでスケッチブック片手に絵を描いている男、ハル?
 ハルがいた。
 絵を描いていた。
 まったく、なんて真夏が似合わない男なのだ。
「ハル」
 大声で話しかけた。
 ハルが私に気付く。
 あ、そういえばまだ一回しか会っていない。それもけっこう前。しかも友達の友達としてしか会っていない。私の印象なんてなかったかも。こっちは鮮明に記憶しているけど、かっこいいハルにとって、あの時間はどうでもいい時間だったかもしれない。そうだ、違いない。ああ、どうして話しかけたのだろう。やばい、私はバカだ。かっこいいからいろんなきれいな人も知っていると思うし。あ、そしてホストもしているんだった。金の亡者。そんな人が一円も価値のない私を覚えているはずがない。
 ああ、後悔。
「ああ、ミホちゃん、久しぶりだね」
 ハルは笑って私を歓迎してくれた。
 なんだ、覚えていてくれた。
 ちょっと嬉しい。
「ハル、何をしているの」
 私は勝手にハルの隣に座った。
 ハルは風景画を描いていた。
「公園を描いている」
「そっか。それにしてもこんな暑い日によくやるね。なんか、真夏の公園とハルって全然合っていない気がするけど」
「そうかな?どこが?」
「その服と、色の白い肌と、顔と、目と」
「全部かよ」
 思わず、二人で笑いあった。
 だって本当だもん。
 全身黒の服。青い目、白い肌、整った顔立ち。
「ひどいなあ。ミホちゃんは、今日は病院?」
「あ、やっぱり覚えてくれていたの」
 覚えていたのは私だけだと思っていたけれど、ハルも覚えていたみたい。素直に嬉しい。
「かわいい子は一度見たら覚えている。タカシの友達って紹介された時はびっくりしたよ」
「かわいいって。嘘でもありがとう。私、ウツなの。ウツ、鬱病なの」
「そうか。いつから?」
 ハルは驚かず、返事をした。
 驚かれなかった。
 ハルは手を休めず公園の絵を描いている。今は目の前にある大木の幹の部分に手をつけている。
「最近なの。いつから、なのかな。それもよくわからないかも。とりあえず今は絶望の真っただ中。笑っちゃうほどに」
「薬、飲んでいるの」
「うん、ちょっとだけ飲んでいる」
 どうしてだろう。
 友達にも家族にも、誰にも打ち明けていない真実を簡単に告白してしまった。
 病院で見られたっていうのもあると思うし、誰でもいい、誰かに話したかったっていうのもあると思う。あ、ハルだからっていうのが勿論一番にある。
「ハルは、どうしてあそこにいたの?ハルもウツ?」
「うーん、ウツだった。それに俺は複雑だから」
 ハルもウツ、だった?治ったの?
「ハルもウツだったの?過去形という事は、治ったの?複雑って?」
 ハルは鉛筆を置いて、息を深く吸った。その彼を見て、聴いてはいけないことだったかもしれないと後悔した。
「あ、ごめん。私、無神経だったよね。まだそんなに会っていないのに、こんなこと聞いて。言わなくていいよ、ごめんね」
「いいよ。別に隠しているわけでもないし。この前一緒にいた奴らはみんな知っているし。前までウツだったのは確か。俺が絵を描いている学生って知っているよね」
「うん、知っているよ」
「自分で言うのも変だけど、こう見えて入学当初は周りから良い評価をもらって、賞とかもとっていた」
「わかるよ。あの時描いてくれた絵を見て、鳥肌立ったもん。凄くかっこよかったし。今描いている絵も凄くきれいだよ。私ってさ、恥ずかしいけど絵とか全然わからないの。その私でも一目で凄いって思うから、絶対すごいよ。しかも賞をとるとか、本当にすごいよ」
「ありがとう。嬉しいよ。で、それからいろいろ挫折をしてさ。実はミホちゃんの前で絵を描くまで一年位絵を描いていなかった」
「え?うそ?本当?」
「本当の本当さ。タカシとかだって驚いていただろう?自分も驚いたよ。それに、嬉しかった。まだ絵が描けたって。ヘタになっていたけど、俺にとって大きな一歩だった」
「ずっと描いていなかったのにあんなにうまいの?なんかずるいな、羨ましいよ。才能めちゃくちゃあるね」
「ありがとう。あと、複雑っていうのは、ウツのほかにもいろんな精神的特徴を持っているってことかな
「特徴って何かな」
 あ、またしても失言だったかな。
「そう、まあそれは次の機会に。あれから来ていないけど、どうして?ウツがひどかったから?」
「う、うん。外に出たいって思っても体が動かないの。行きたいって思っているよ。これは本当だから」
「わかるよ。だって俺もウツだったから。辛いよな。友達には話しているの?」
「まだ言ってない」
「正解だ。世の中はバカばっかりだから、ほとんどの奴はウツが理解できない。けど、一人じゃあ辛いだろう。これからは。いつでもいいからおいで。この前のメンバーはみんな本当にわかる人間だから。ユキっていたろう?あいつもウツと闘っている最中だ。夏なのに長袖のシャツを着ていただろう。両腕、リスカの跡でいっぱい」
「みんな同じっていうのはわかったけど、そういうこと簡単に教えていいの?」
 リスカ、リストカットしているとか。
「ミホ、お前はもう仲間だ。大丈夫、あいつはリスカ自体にあまり劣等感をもっていない。何せ自分のブログにリスカの写真を載せているくらいだし。たぶん、次会った時にはあっちから見せてくるさ」
「どんな人なの」
「はは、世間では変わっているって言われるのかな。俺の人生もけっこうヘビーだけれど、ユキの人生もそうとうヘビーかもね」
 ハルは胸ポケットから煙草を出し、火をつけた。その姿は絵になる。
「ねえ、ハルは今何をしていたの」
「今?絵を描いていた。英語の勉強をしていたように見えるかい」
「良かったら見せて」
「いいよ」
 きちんとスケッチブックを見た。目の前の光景が青と黒の鉛筆で描かれ、紙のなかに見事に再現されている。どうして青と黒しか使っていないのかわからないけど、やっぱりキレイ。
 写真でもこうはキレイに写らないと思う。
「絵の練習?」
「半分はそう。あとの半分はただの遊び。俺ってさ、絵を描くの、好きだから
「そりゃあそうだよね。だって絵の大学に通っているくらいだし」
「そうだけど、一年くらい絵を描いていないって言ったよね」
「うん。まだ信じられないけどね。だってこんなにうまいし
「本当だよ。この一年間、絵を描きたいなんて一度も思ったことがなかった。絵なんてむしろ嫌いになっていた。もう絵の具、鉛筆、真っ白な紙を見るのもうんざり状態」
「それがどうして?きっかけは?」
「何だったのかな。はっきりとしたことはわからない。あえていうなら時間、かな。時間が俺には必要だったのかも。一年前は大きなプレッシャーもあったし。悲しいこともあったし」
 悲しいこと、さすがにそれは聞かなかった。
 絵は見事にこの公園が再現されている。
 けれども、私はすぐにその違和感に気が付いた。
 ハルの絵には人がいない。
「どうしてハルの絵には人がいないの」
「ああ、そうだった?描き忘れだよ。次に描こうと思っていて」
「嘘でしょ」
「・・・うん。もう一年以上人を描いていない」
「だったら、私を書いて、お願い」
「え?」
 ハルが私をみた。
「お願い」
 視線が合う。
「そうだ、この絵、人がいないね。どうして?」
 ちょっと話題をそらしてみた。バカな私でもさすがにそういう機転はきく。確かに、その絵には誰もいなかった。あたたかい雰囲気のある絵だけど、人がいないから違和感がある。
「ばれているよな。わざとなんだ」
「わざと?けど、いた方がいいと思うな。ねえ、絶対いたほうがいいと思うよ。描いてよ。ほら、あそこでいちゃついているカップルなんてどう?」
「あのバカを描けと?」
「おお、言うねえ。毒舌だね」
「普通さ。誰がどう見てもバカだろう。昼間から、健全な公園で何してやがる」
「ハル、彼女いないでしょ」
「う、うん」
 しばし沈黙。
「どうしてわかったの」
「大丈夫、私もあのカップルを見て、そう思ったから」
「ミホ、彼氏いないだろ」
「うん」
 またしばしの沈黙。
「彼女、いてそうなのにね」
「あれ、あっさり信じる。そう言っても誰も信じてくれないけどな、バイト先では」
 バイト先=ホストクラブ。
「彼女、本当にいないの?」
「うん、本当。もてるけどね」
「イヤなやつ。ハルってイヤな奴」
「ははは、冗談だよ」
 ハルと一緒に笑った。
「いないことは本当。ミホもいないよな。一緒」
 ハルは次に定番の質問をしてこなかった。
 へー本当にいないの?嘘だ?いそうに見えるけどね、もてるでしょうという質問。
 私がうんざりするほど聞いてきた、彼氏がいないと初対面の男の子に言ったあとに返ってくる言葉。
 その定番の質問は私をひどく失望させる。
 かっこいいなとか思っていても、一気に熱が冷めてしまう。
 こいつ、バカだと思ってしまう。と自分がされたら嫌なのに、同じ質問をしてしまっている自分がいる。自己嫌悪。
「彼女いないのはわかったけど、どうしてバイトやっているの、その、ホストとか。他にもアルバイトっていっぱいあるよね
「ミホってバイトしたことある?」
「あるよ。もしかしてバカにしているの?世間知らずのバカだって」
「していないって。そうだな、よし、俺のこの外見を見てくれ」
「え?う、うん」
 改めてハルの外見を確認した。
 かっこいいよ。むかつくけど。
「見た?こんな格好で稼げるバイトって何だと思う?少し考えたらわかるよな」
「どうしてそんなにお金が必要なの?何か買いたいものがあるとか?車とか」
「幸せな発想だな。おっと、けなしている訳じゃないから。俺の家ってさ、両親がいなくて、兄弟三人で暮らしていてさ、それでこいつら頭がよくてさ。俺と違って。そうなりゃあ大学にいかせたいだろう。だから生活費を稼ぐ必要がある。それで」
「ほ、本当?」
「そうだよ。まあ、どこにでもある話だよ」
「どこにもないよ。ごめん、ハル。そんな事情があったなんて、ごめん」
「どうして謝る。ホストしているのは事実だし」
 ハルならきっとホストでも売り上げナンバー三以内に入っているに違いない。
「ホストってしんどい?」
「めちゃくちゃしんどい。酒もともと好きじゃないからよけいかな。絵を描かなかった理由、ホストが忙しかったっていうのもあるかな」
「そうなんだ」
 私はハルとその絵を交互に眺めた。
 そして名案が生まれた。
「そうだ。私を描いてみてよ」
「え、ええ?」
 そんなに驚かなくてもというぐらいハルが驚いた。
「マジで?」
「どんな冗談だよ。ねえ、描いてよ。いいでしょ」
 ハルは黙った。
「ここならタカシ達もいないから、ヘタでも笑われないよ。だって、私には絵の知識なんてないし。さあ、ね」
「別にあの時は笑われたくないから描かなかったわけじゃないけど」
「いいの、別に拒否する理由なんてここではないでしょう」
 またハルは口を閉じた。
「よし、じゃあ取引をしよう」
「とりひき?」
「うん、取引。ハルが私を描いてくれたら、私はまたタカシのあの家に遊びに行く、必ず。どう?」
「どうって」
「いいでしょう。気楽に描いてよ。どうせ絵を描かなくなった理由なんてたいしたことないでしょう」
「たいした理由か、そうだな、うん。たいした理由じゃないよな。もう前を向かないといけないし、前を向きたい。よし、描いてやるか」
「マジ?ヤッター、嬉しいよ」
 ハルはスケッチブックのページをめくると、私と距離を取って向き直った。
 どうやら新しい紙に描くみたい。
 私は彼の目に引き込まれた。
 動けない。
 さっきまで笑っていたハルじゃない。
 これがハル。
 あの時以上にオーラを感じる。
 ハルは腕をまくり、深呼吸をした。
 薄く、画用紙に鉛筆で顔の輪郭を投影していく。
「私ってどういうポーズをしておけばいいのかな」
「別に。セクシーポーズは?」
「ぶっ殺すよ」
「冗談、そのままでいいよ」
「笑顔の方がいい?」
「そのままでいいよ」
「かわいく描いてね」
「はいはい」

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