感性をぶん回す

ぶっきらぼうに生きるのは気持ちがいい。「ほら、私はこういう人間なんだ!」というのを全面に出して、どっか行って誰かと話してみる。いつもより、知らない人と仲良くなるのが簡単だ。

私は地元が嫌いだ。別に家族や友人と不和があるとかではないが、魂が閉塞感にやられてしまう。田舎にある実家に居ると、「ああこうしてクソつまらないことを考えたり退屈しのぎに昼寝したりして死ねんだろうな〜」という気分になる。気分になるだけじゃなくて、実際そうなのかもしれん。地元には、私が今まで私として生きてきた履歴が積み上がっている。その履歴が、ずっと私のことを見つめている。そのせいで自分として振る舞うことが難しい。あのときの私と今の私はきっといくらか違うのに。

地元でなくても、私は私の感性を開示するのが苦手だった。私の知り合いがこれを見たら「いや嘘やろ」とか思うかもしれないが、それは苦手な上で溢れてしまった何かしらなんだよ。私は自分がひねくれ者だってことを知っているから、何を喋っても結局誰も分かりゃしねえよと思っていた。何かおかしいことも分かります。常識はあるつもりだから。だからまあ、めんどくさいなと思って自分の殻に閉じこもっていたのです。

でもそれじゃあ、まるで怯えてるみたいじゃないか?と思った。大好きな喫茶店で、常連の人たちに「近くの銭湯に行きませんか?」と言われて向かったときに。裸の付き合いというやつは奇妙で、なんかぶっきらぼうに色々話したくなる。そのときに初めて、「あ、喋るの緊張するぜ」と思った。世間一般トークはなんともないけど、自分を自分の態度の上に表現することに抵抗があるのを感じた。銭湯に行った仲間の一人に、哲学の研究者の人がいる。その人がサウナ耐久中(何やってるんだマジで)にめちゃくちゃ苦しそうにしてるとき、サウナ耐久発案者の庭師志望の青年が、「最近読んだ本の話とかしてあげて。そしたら元気になるから」と言った。私は最近ゴミ虫みたいなスピードでいろんな本を読んでは感銘を受けまくっている。喋りたいことなんていくらでもあった。でもそのとき言えなくて、「自分、感性を晒すことにビビってるな」と勘づいた。そのときは銭湯に行った仲間たち、もちろん顔は分かるけどお互いの名前も曖昧なくらいだったから、何が好きとかも当然知らなかった。

小説を書いている。新しく出来た文芸のサークルに入って、人の書いたものを読んだり自分が書いたものを読まれたりしている。思えば、あのサークルの人たちの前では、自分は妙にぶっきらぼうだなと思った。それもそのはずで、自分の感性なんてものは隠そうにも作品の上にへばり付いているのだから、隠す意味なんて無い。それだから、別にまだそこまで親しいわけじゃないけど、そのサークルの人たちといるときは、すごく楽しい。あ、思い出した。私が小説を書こうと思った理由の一つ、「自己開示の練習」だったな。そうだったわワロタ。

そうして意識してぶっきらぼうに生きてみることにした。すると、ああ、これだこれ。これでいいんだ。私はただ臆病だったんだな。京都の街は、ぜんぜん私という人間の細部に興味を持たないから、心地いい。そのおかげで、私はのびのびと振る舞うことができる。感性をぶん回してぶっきらぼうに生きてみる。ああ心地がいいな!まったく!そうは言っても、なにが好きとか嫌いとかもドンと前面に出すことになるから、きっとそれに見かねて離れていく人もいると思う。実際変なことも言ってると思う。だって私はひねくれ者だから。でもそれが私だからゴメンねというスタンス。頑張ってしんどいくらいならサボりましょうの精神、みたいな。ひねくれたひねくれ者より素直なひねくれ者の方がきっとマシじゃない?そんなことないか。

まあとにかく、私はどうやら臆病になりきれないので、開き直って感性をぶん回してみることにした。しばらくこれで、なんかダメだったらそのとき考えよう。そんなことより超眠い。note書いてたら絶対眠くなるのなんなの。意味わかんない。みなさまごきげんよう、いい夢みろよ。いや失礼しました、いい夢みてください。

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