2023/06/30、「笑い」について

「笑い」は、すべてを肯定する。あらゆるネガティブな事柄を、すべて丸ごと肯定的に変化させてしまうような、恐るべき魔力を秘めている。仮にどうしても肯定できないようなことが起こったとして、その否定性自体をうまく笑ってしまえば、否定性それまでもが肯定されるのだ。日常生活のなかのどんな瞬間に「笑い」が成立するのかを考えてみればいい。それはいつでも、想定外なことや無意味なこと、端的にいえば「失敗」が生まれたときである。お酒で失敗したこと、恋人にフラれたこと、上司に怒られたこと、なんでもかんでも、語り方と聞き手の態度次第でポジティブな作用を生み出すことができる。

このポジティブな作用はやはり恐るべき魔力だと思う。笑いの世界においてはあらゆることが肯定的になりうるのだから、あらゆる暴力、あらゆる無思考、あらゆる憎悪が、肯定的に語られる可能性を秘めることになる。きわめて極端な話、銃の乱射事件や、途上国の飢饉、性的な虐待さえ、少なくとも潜在的には、笑いというポジティブな作用を生む材料になりえてしまう。笑いは、さまざまな悲劇や苦痛に苛まれている人々と、それを問題視し語る人々のあいだで煮詰められた文脈を、パロディ化することができてしまう。「不謹慎な笑い」が問題となるのも、一方でしばしばそれが実際に笑いをもたらすことも、笑いの恐るべきパロディ・パワーありきのことだ。

パロディ・パワーは暴力や差別をポジティブ化できてしまうが、一方でもっと建設的な使用法もあると思う。パロディはあらゆる否定的な出来事を解きほぐしてしまうのだから、人生のなかに少なからず生まれてしまう、ほんの少し辛いことだったり悲しかったことを、うまくパロディ化できたらいいと思う。自分自身が自分の人生を笑ってしまえば、「おかしなもの」として規定してしまえば、どんな予想外な展開だって肯定されうる。どんな失敗だって笑われうる。

「普通」とズレてしまっていたり、何かに飢えて苦しかったり、生き急いで苦しくなったとしても、一旦立ち止まってそれを笑うことはできる。それで全てが解決するはずはないが、あっけらかんとケタケタ笑っているほうが、何もできずにシクシク耐えているよりかはよっぽど爽やかでいい。こういう態度を徹底するには実は相当な自己相対化が必要なのだが、とにかく重要なのは、他者を笑うことではなくて(これはしばしば暴力的だ)、自分自身を突き放して笑うこと。ここに尽きると思う。

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