井の中の幸福コンプレックス

なんだか怖くて、書いて即非公開にしてしまった文章を、いまさら公開します。(2022.06.25)


何をしていても、ふと立ち止まった瞬間に現れる、僕の胸の中にこびりついて離れない言葉があります。それが「幸福コンプレックス」です。幸福であるのにコンプレックスだなんて、かなり倒錯した感情だと思われるかもしれません。一見すると訳も分からぬこの観念を、あれかこれかと模索した末に何とか説明しうるレベルまで分解できた気がするので、ここに記しておきます。


「井の中の蛙」は幸福でしょうか。大海のことはよく知らないが、井戸の中でも満足のいく生活はできているし、見上げれば青空もそこにある。外敵の鳥に啄まれることもないし、心地よい温度の水もあるし、生きていくのに充分な食べ物もある。彼の世界は全くの平穏です。これが幸福かどうか考えたとき、少なくとも不幸とは言えないでしょう。艱難辛苦の一切を排して生きていけるのですから、常識的に考えれば、これは幸福です。

ショーペンハウアーという哲学者がいます。彼は『幸福について』と題された一連の警句の中で、幸福の定義をこんな感じで述べています。

「幸福とは、不幸が欠如している状態である」

これはまさに「井の中の蛙」そのもので、足るを知ること、多くを求めすぎないこと、まずまずの人生こそが幸福だそうです。苦痛もなく、なおかつ退屈もしない人生であれば、これ以上の幸福はないというのが彼の見解です。なぜなら、ちょうど健康な身体にほんの少しでも痛みがあればそこにだけ意識が向くように、「苦痛こそが現実」であって積極的な幸福は幻想に過ぎないので、苦痛を避けるのが何より賢明だからです。


さて、「井の中の蛙は幸福である」というのは、割と一般に正しい命題であるのかもしれません。いや、むしろこれも幸福の真理の一つでしょう。誰も、平穏無事に生きたいと願う心を否定するわけにはいきません。僕の友人がこう言っていました。

「自分を押し通して何かが乱れてしまうよりも、自分が今いる世界の平穏を優先したい。それが私にとっての幸福だよ。」

消極的ではありますが、これも確かに幸福なのかもしれません。幸福。幸福。





しかし、本当なのか?僕には、どうしてもそれが、納得できない。理解はできるが共感はできない。どうしても。蛙が一生を井戸の中で過ごすって、そんなに豊かなことなのか?僕は結局根っこの部分が苛烈だから、やろうとしても行雲流水なんて生き方ができなくて、もっと、もっと積極的な何かを追い求めたくなってしまう。自分を殺しながら平穏無事だとか絶対に言いたくないし、悲しいけど、そんなものに意味を見出せない。


かなり激しいことを言います。平穏無事だとか言うけど、生存そのものに意味を見出すのは難しい。頑張って生きている世界中の人たちに本当に申し訳ないけど、どのように生きても、客観的に見れば、生きることそれ自体は完全に無意味なように思える。なぜって、人は死ぬでしょう?死んだらそこで何もかも終わりです。どんな名声を手に入れてどんな偉業を残したって、死ねばもう、当人にとっては何も残りません。後世の人々がそれを讃えることもありますが、死んだ当人に何の意味があるでしょう?当然ながら生命は尊い。生命に価値はあるはずだけれども、生きている当のものにとって、自分の生命に客観的な意味はないのです。死後の世界を信じている方はごめんなさいね。気にしないで。


そうなってしまえば、人生に客観的な意義を見出すなんて不可能です。終わることが義務付けられたことを、そうと知りながら続けるのですから。だから、主観的な意義しか無いじゃないですか。生まれてしまったからには、好きなことを好きと言って、嫌なことを嫌と言って、好きな事だけやって、楽しげに果てて、死ぬ。それを目指すしかない。苦しいけど、僕にはそれしかないんです。

葛藤の無い人間は幸福なのか、本当に生きているのか、甚だ疑問です。せまい籠の中からお花畑を嗤って見ていて、一体何になるんだ?僕は井戸の中の住人よりも、大海へ漕ぎ出る人の方をより敬愛します。その中で苦痛が生じるなら、それもまるごと引き受けていくしかない。ショーペンハウアーもあんなことを言っているが、「苦痛こそが現実」とも述べているわけで、苦痛と背き離れるのは、現実からの背離に他ならないのではないでしょうか。



僕の愛する作家坂口安吾の自伝小説の中にこんなセリフがあります。

「君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。」

僕はこれに大いに賛同する。別に積極的に苦しみに行くことはないけど、それを避けるために自分の本当の意思を挫くのは、自分に対する不誠実です。それだったら、乾坤一擲の後、うんと不幸になった方が美しい。

僕はこんなだから、今の幸福にどっぷりと使っている状態、というよりはそこに満足していること自体が不満で、コンプレックスを感じるのです。芥川龍之介がある農民作家のあまりにも不幸な現実話を聞いた時に、自分の生活には農民作家のような切実さが無かったことに気づいて失意に沈んだ、という話があるのですが、幸福コンプレックスはそれと無関係ではない気がします。むしろほぼ同質のものでしょう(詳しくは『文学のふるさと』という文章を参照してください)。もちろん僕には芥川みたいな峻烈な頭脳はなくて、それゆえ悩みも浅はかだろうけど、同種の感覚であることは間違いないはずです。

さて、幸福コンプレックスとは大体このようなものです。各々に生まれながら与えられた時には理不尽な限定の中で、より良く生きるために格闘すること。それ無しに生きているとは言い難くて、僕のあまりにも若い心はそれを切望しているのです。若い。あまりにも若いですが、今の僕が発見した真理です。他人の真理は、それはそれでまた別にあるのでしょうけどね。



人生との格闘は、孤独を伴います。不安を伴います。ニヒリズムを伴います。これらは人間ひとりが太刀打ちするにはあまりにも強敵です。しかし、それをどのように乗り越えるのか、方法を編み出した末に、本当の個性というものがようやく顔を出すのだと思います。本当の魂の成長は、井戸の中から這い出るところから始まります。


今少し全体を見返してみたんですが、腹が立つくらい青臭いな。こんなものは、まだ19歳のヘンチョコリンの遠吠えに過ぎません。でも、いやだからこそ、10年20年30年後の僕が、これに同意することを望みます。そしてこの文章が、いつか未来の肩がすくんで尻すぼみした僕のケツを引っ叩く道具になってくれればなと思います。

これが単なる理想論なのか、はたまた僕自身の人生を支える倫理となるのか、誰も今は知りません。知っているのは、未来の僕だけです。僕が人生をこのように捉えること、それ自体が一つの賭けなのです。




(おわり)

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