2023/07/11 倫理の人と家庭主義

「子育ての秘訣はありますか?」という質問をされて、その人は一瞬たりとも迷うことなく、力強い眼差しでこう答えた。

「とにかく、そのまま放っておくことや」

そのあまりの痛快さと迷いのなさに、側から話半分に聞いていた私は吹き出しそうになった。きっと質問者は、学校での勉強とか、課外の習い事とかについて、親がどのようにして子どもに手を掛けるべきかを聞きたかったのだと思う。それなのに、質問者のそうした前提を根っからひっくり返すような答えが来たのだから、質問者も流石に動揺を隠すことができずに唖然としていたのだった。それを聞いた私はなんだか勝手に励まされるような気持ちになった。一見すると、ただ親としての責務を放棄するのような身勝手な発言に見えるが、私は彼らこそが真に倫理的な人なのだと思う。

この世には一定数、ただ欲望のまま何かにのめり込み、驚くべきほどの知識や技能を勝手に蓄えて、しかし一方で世間的な趣味嗜好にはどうしても迎合することのできない、器用なのか不器用なのかよく分からない人たちがいる。かれらはシンボリックなものに囚われ続ける「人間」というよりかは、欲望に突き動かされる自動機械のようなものだ。かれらは、外部に設定された規範的な目的にむけて、合理的で適切な行動をとり続けるような人たちとは、根本的に異なる。ただ、知りたいこと、表現したいこと、追求したいことだけが目前に見えていて、世間的な価値には殆ど無関心なのである。自分の欲望だけが先に存在して、ただそれに向かって機械的にまっすぐ突き進んでいく。機械的な運動の末に出来上がったかれらの生活は、大部分の人間には不可解なものにしか見えないだろう。ヘンテコな時間割で生活したりだとか、ヘンテコな場所に通い続けていたりとか、ともかく不可解ではあるが、そうした人間は不思議ととても魅力的なのである。かれらは、人工的な道徳だけで動いているわけではないという意味で、つよく倫理的である。<倫理>の人とは、道徳という人為的で窮屈な既製品を無視して、ただ自分のやりたいことや為しうることにのみエネルギーを注入し続けているような人のことだ。

そんなかれらには奇妙な共通点があって、それが「家庭嫌い」なのである。あるいは「家嫌い」とか「定住嫌い」と言ってもいいのかもしれない。ともかくかれらは、親が権利を持ち、子どもが所有物となるような近代家族イデオロギーからは、(おそらく無意識的に)共通して距離をとっているように見える。別に親を憎悪しているとか、親戚が苦手などという意味ではない。ただ、自分自身が「所有」されることに我慢ならないだけなのだ。

私の中の倫理代表といえば、戦後作家の坂口安吾である。安吾もひどく「家庭」を嫌っていて、さまざまなエッセイのなかでかなり強い言葉で批判している。その極地が「デカダン文学論」という世にも素晴らしいエッセイで展開されている。

「日本の家庭というものは、魂を昏酔させる不健康な寝床で、純潔と不変という意外千万な大看板をかかげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思っている。」
「問題は単に『家庭』ではなしに、人間の自覚で、日本の家庭はその本質に於て人間が欠けており、生殖生活と巣を営む本能が基礎になっているだけだ。そして日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の陰鬱さを正義化するために無数のタブーをつくっており...」

とまあ、こんな感じで「家庭」というものが人性に反するものとしてこっぴどく攻撃されているので、家庭嫌いの人間には一読の価値ありだ。かくいう安吾本人も

「何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化の出来ない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。」

という感じであったから、彼の家庭嫌いはほとんど肌感に近いものだろう。しかしながら、いわゆる近代家族論が創始される以前にここまで近代的家族を批判しえたのは、詩人の直観というやつなのだろうか。傑出した芸術家には家庭に不向きな人間が多いが、これも何かの因果があるのだろう。葛飾北斎という面白ヘンテコ超人画家が凄まじい回数の引っ越しを経験していたことが頭に浮かぶ。

私からもひとこと言わせてもらうとすれば、近代家族とは、端的に言って子どもの生まれながらの借金なのである。親は蓄財し、子供を育て、彼に向かって投資する。成長した子どもは、大人になったその時点で、無限の負債を抱えている。負債は、債務者と債権者の権力関係を生み、子どもは家庭の債務者で、親は債権者であり権力者なのだ。とくに、幼少期に家庭を中心に生きた人間(今ではほとんどの人間がそうだろう)からすれば、家庭はミクロコスモスであり、親は宇宙の王なのだ。これは親自身の人格的特性には還元できない問題で、どれだけ親が良心的で自由な精神の持ち主だとしても、構造的にミクロコスモスの王になりがちなのである。親がそうと明示しなくても、キチンとしなければ無意識に「負い目」を感じるのが子どもなのである。そうして子どもはやがて、立派な大人になって社会に組み込まれ、結婚し、蓄財し...。

倫理の人間がそうした定型的な家庭感情を嫌うのは、無理のなからぬことである。自分は親の所有物ではない、それゆえ、自分も子どもの債権者ではない。その結果出てくる言葉が、

「とにかく、そのまま放っておくことや」

あるいは、これまた坂口安吾の引用になるが、

「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。」(不良少年とキリスト)

なのである。
私は、生き方や人生に悩む人間の多くが、実は「家庭」について悩んでいるのではないかと、本気で思っている。かくいう私も例外ではない。親から支援されている以上は、何か示しをつけなければならないと、無意識に感じている。「家庭とか関係ないぜ!我が道を行くぜ!」と本当に欲望のまま探究しつづけて生きていくのは、本当に難しい。それゆえ倫理、あるいは欲望にかかわる現代でもっとも大きな問題は、家庭主義にあるのではないかと思う。

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