2023/06/03、小説を書くためのノート

私はnoteの機能があまり好きではないんだけど、その理由のひとつは、記事にタイトルをつけなければならないからだ。タイトルをつけると、何らかの一貫性を持ってまとめないといけないのでは、というような気がして妙に焦ってしまう。これからは全部のタイトルを日付にしてしまえばいいのかな。

私たちの世界は、「他者」であふれている。他者は何を考えているか知れないし、何をしでかすかも予測がつかない。信じるに値するものかも分からないし、敵意を向けてくることすらあるだろう。私は他者を過剰に恐れている節がある。隙を見せれば自分自身の矛盾を見透かされてしまうような気がするのだ。それに気づかれるのが嫌で、焦ってぎこちなくなって、そのたびに世界のことが一時的に嫌いになってしまう。本当はきっと矛盾のない人なんていないのにね。だから私にとっては、得体のしれない他者となるべく関わらないほうが心地よいのだ。

だからといって、誰からも少しも理解されないのは寂しい。他者は恐ろしくてたまらないけど、見たところみんな、他者から理解されなければならないという強迫感を少なからず持っているようだ。私たちの世界は、得体のしれない他者と一緒でなければ生きられないようにできている。世界はそういう仕組みで回っているので、みんな戦々恐々としながら他者を理解しようとしたり、なんとか誰かに理解されようと、あるいは理解されたという実感を得ようと、もがいている。私だってそうだ。人を信用するのが下手なくせに、自分のことを理解してくれる「誰か」をずっと探しているような気がしている。

けれどもある程度冷静な人ならば、「理解」という言葉の限界にも薄々気づいているんじゃないだろうか。他者に対する理解って、どこからどこまでを言うのか、説明できる人がいるのだろうか。少なくとも、他者の思うこと感じること全てを理解することは不可能だし、そもそも親友や恋人相手でさえ、その半分でも理解しているのか、言い切れないと思う。もしそんな奴がいたら、そいつは真に大ばかものだ。それに、なんとなく理解できるような気がしない相手には、人はとことん冷たくなってしまうものだ。本当は全然理解なんてできていない人たちのことを仲間と呼んで、なんとなく理解できなさそうな人々との間に線引きしておいて、安心している。誰かに対して理解できないと断言してしまうことで、自分の足場が確保されたような気がしてしまうのだ。この考え方は、寂しいし貧しい。

それだから、「理解」を経ずに共存する、みたいな在り方があってもいいのではないかと思う。ことさらに理解できるか否かを強調するのではなくて、わからないものはわからないものと腹をくくり、ただ極度に怖がらずに一緒にいること。私たちは本当は理解なんてされなくたっていいのかもしれない。本当に必要なのは、心と身体の隅々まで分析されて見透かされることではなくて、自分がどんな姿形でも、ただ怖がらないでいてくれること、この一点に尽きるのではないかな。

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