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私を見ていて

  壁にかかる古い絵の中の林檎に縦の亀裂が入ると、それはゴツゴツした人差し指と中指でめきめきと拡げられ、開いた穴から紺色の瞳がこちらを覗いた。その瞳は真夜中の海のように暗く深かったので、すぐに死んだ夫のものだとわかった。夫は床に落ちて腐っている林檎を見つめながら涙した。まるで己の亡骸を目の当りにしたかのように狼狽えている。夫の涙が絵の林檎を濡らして汚し始めたので、私は慌ててその涙をハンカチにそっと染み込ませた。夫の目が絵の具で濁ってしまわないように。だって見ていて欲しいから。死にゆく私を。それは林檎が腐るように綺麗ではないけれど。なのに夫は涙を流すことをやめない。私の白いハンカチは、夫の瞳の色に染まっていくばかりだった。

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