令和4年司法試験憲法再現答案

設問1
 そもそもXが憲法を踏まえて丁寧に説明したいと考えたのは、決定①がYの学問研究の自由と、決定②が教授の自由と、それぞれ抵触しうる恐れがあるためである。23条は学問の自由を保障しており、その中に学問研究の自由と教授の自由が含まれている
1 決定①
 まず、Yの行為は研究の自由としての保障範囲外である。ポポロ事件判決は、当該行為が純粋な学問としてではなく、実社会の政治活動と関連する場合には、学問の自由としての特別の保障を受けない旨判示した。「Y研究室」はYの政治的意見表明や団体Cの活動にも利用されているし、Yは団体C主催の学習会で産業政策批判の講演を行うなど、Yの政治的活動に使われている。よってYの行為は純粋な学問としてではなく実社会の政治活動の一環であるため、学問の自由として保障されない。
 次に、決定①はYへの助成金を交付しない旨の決定であるところ、学問研究の自由は、自由な研究を妨げられないという自由権であり、作為請求権ではないから、助成金を不交付としてもYの自由を何ら妨げたことにはならない。よってYの学問研究を制約していない。
2 決定②
 まず、決定②は既にYが行った教授について事後的に改めた成績評価を行うだけであって、Yの教授行為そのものに影響しないから、教授の自由を制約しない。
 次に、X大学は、学問の自由を制度的に保障する観点から認められている大学の自治を享有しており、その中に学生管理の自治が含まれる。そして、学生の成績方法については学生管理の一環として大学が行える権能を有しているのだから、決定②が大学の自治の一環である以上Yの教授の自由は制約されていない。
 加えて、仮に教授の自由を制約するとしても、決定②はYが行う「地域経済論」の内容を問題としているのではなく、教授の方法を問題視しているのであるから、制約度合いは低い
設問2
1 決定①について
⑴研究の自由の保障の範囲外とする主張に対して、Yから「Y研究室」はYの持続可能な地域経済の在り方についての研究の一環であり、研究の自由に含まれるとの反論が考えられる。
 この点、ポポロ事件判決の事案は、研究発表の自由が直接的には問題となった事案であり、研究の自由が問題となる本件に直ちに妥当するか議論の余地がある。また学問は試行錯誤の過程の中で審理に到達することを目的とする性質があり、トライアンドエラーの中で偶発的に成果を生じることも多い。そして研究の自由は、真理到達への手段・方法なのであるから、学問のこのような性質に照らして可能な限り広く保障することが学問の自由に資する。本件でYは確かに「Y研究室」を使って一定の政治的活動をしている。しかし、Yが行う学問は持続可能な地域経済の在り方であるところ、地域経済の在り方を問題としている時点で、実社会との一定の結びつきを踏まえることが不可避であるし、現代における経済と政治の密接性に鑑みれば、政治問題の追及がYの研究に成果を与えないとは言い切れない。またYは持続可能性をも問題としており、これは現代における重要な政治的社会的問題の一つとされている。現に、Yはこのような観点から農業や観光業などに力を入れていくことが重要であると考えているところ、農業観光業と持続可能性には一定の結びつきが観念できるし、そのための実地調査と評価できる。YがC団体の学習会講演を無報酬で行っているのも、以上のような自身の研究の一環であるため報酬を必要としなかったものとも推測できる。
 以上を踏まえるとYが行ってきた活動は学問研究として保障を受けるというべきである。
⑵次にYから、助成がなければ研究に重大な支障を生じるし、自身の研究は助成の趣旨に沿うものであるのに、これまで不交付の例がない助成の打ち切りを行うことはYの研究の自由を制約するとの反論が考えられる。
 研究の自由は自由権であるから、原則として助成が与えられなかったからといって研究の自由が制約されているという事にはならない。もっとも、判例上、21条に関連してではあるが、指定的パブリックフォーラムである公民館における集会開催を拒むことが集会の自由への制約となり得る旨判示した泉佐野事件や、公立図書館にある図書を不当に破棄した場合に表現の自由を侵害しうると判示した西船橋図書館事件等がある。そして、本件では、大学は本来的に学問を行うことを目的として研究者たちが集まる場であるから、集会の場所としての性質を持つ指定的パブリックフォーラムと類似すると言えなくもない。またX大学は、自ら「地域経済の振興に資する研究活動を支援する」という目的でA研究所を創設しており研究者の研究を促進する体制を整えているから、ある意味A研究所は公立図書館と同視できる。以上を踏まえると、本件においては助成金を利用して研究を行う自由が保障されていたと評価でき、決定①はこれを奪うものであるから、Yの自由への制約と言える。
⑶助成金の不交付が研究の自由への制約と捉えた場合、それが許容されるのは、他の有力な研究との競合が生じた場合や当初掲げられていた助成目的等に合致しない事由が生じた場合に限られると言うべきである。
 本件では、Yの他に有力な研究が競合したという事情はない。また前述したように、Yの活動は政治活動的側面も有しているものの、なお研究の自由として保障される行為であり、それらの行為を行ったことが助成の当初の目的趣旨から逸脱するようなものだったと評価されるいわれはない。さらに決定①は、X県議会でYの活動を問題視する発言が生じ、地元経済界出身議員から明らかにYを念頭に置いたと思われる発言がされた直後に行われており、X大学の経営審議会等の審議を経た決定とは言え、外部からの政治的圧力により歪んだ判断がされたとの疑念をぬぐえない。
 以上を踏まえれば、決定①はYの研究の自由を制約し許容できない決定と言える。
2 決定②について
⑴まず、Yが教授したあとの事後的な決定であるという点について、事後的とは言え自身が行った教授について改めて審査されその教授に問題があったとの烙印を押されれば、教授するにあたって委縮効果を生じ、自由な教授の支障となる。よって制約はあるとの反論が考えられ、妥当な反論と考える。
⑵次に、大学の自治との関係について、専ら大学の自治を強調して、教授の自由に配慮しないのは妥当ではないとの反論が考えられる。
 この点、伝統的には、学問の自由は大学の教員たちの特権であり、大学の自治は対国家との関係でこの特権を保障するものと捉えられてきており、この見解からは大学の自治の行使によって教員の教授の自由が制約されるという場面は想定し難いとの考えに結びつきやすい。もっとも、(現在でもそういった面はあるものの)大学が学問の中心であったかつてとは違い、大学が学問のみならず経済政治とも密接な関係を有し広く国民一般が学問を行える現代社会においては、学問の自由を特権と捉えるべきではなく、広く国民一般が有する自由と考えるべきである。こう考えると、大学の自治を、国民でもある大学教員らを大学による支配から解放するものとして位置づけることも可能である。また地方自治の場面では団体自治と住民自治が論じられるのに、学問場面で大学の自治だけを論じ教員自治を論じないのも妥当ではない。そうだとすると、大学の自治の行使によって教授の自由を制約することがあること自体は認めるべきである。
 そして、大学の自治としての学生管理の自治と教授の自由は、多数在籍する学生を網羅的に管理できる立場にある大学側と、個々の学生と対面して実際に教授を行う立場にある教員らとの調和を図る観点から必要かつ合理的範囲で調整されるべきである。そうすると、大学側が、教授された学問の内容等を問題視して措置を採ることは許されないが、教授の方法が多数の学生の成績評価方法として公平性に欠ける等の理由により改めて成績評価措置を講じることは、学生管理の一環として許容されると考える。
 本件では、決定①はYの行う「地域経済論」の内容を問題としているわけではなく、Yの成績評価方法を問題としている。確かに、Yの言うように、地域経済論の専門家であるY作成のブックレットを批判するということは相当の学問的知識を要すると思え、ブックレットを批判した答案が説得性に欠け評価が低くなるのも当然とも思える。しかし、大学の学生は特定分野を専門的に学習しているわけではなく知識の面で専門家である教授に劣ることはやむを得ないのであるから、成績評価の方法としては、当該学問分野における基礎を踏まえた論述をしているか、基礎を踏まえて自分の言葉でブックレットに批判を加えられているか等の観点からも行うべきであると言える。しかしYの成績評価では、ブックレットに批判を加えた答案が一律的に著しく低い評価となっており、以上のような観点から成績評価がされたか疑問がある。そうだとすれば、大学側が、学生管理の一環として、改めて履修者の成績評価を行うことは、成績評価の公平の観点からの措置と評価できる。よって決定②は教授の自由を不当に侵害するものではなく、憲法上許容できる。
 

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