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「岡崎空襲は突然やって来た」のでしょうか?


今回の展示会を準備するにあたり、一連の「絵」を見せていただく機会がありました。
それは岡崎出身の若者が昭和18年に師範学校から「陸軍飛行学校」に転じて、1年後の昭和19年から
20年の終戦に至るまでを南方戦線で陸軍の戦闘機パイロットとして転戦してきた際の、各地の風物を描いた鉛筆画でした。
それはとても落ち着いた筆致で描かれ、南の国々の香り立つような異国情緒と、見たものの鮮やかな配色を記した文章が添えられていた、「絵日記」のような画帳です。

今回の展示会にぜひ展示させていただきたく、ご家族にお願いしましたところ、快諾をいただきました。
「絵日記」をお預かりしてから、この絵と岡崎空襲がどのような関係にあるのか。もしかしたら、この絵の中の穏やかなで繊細な筆遣いがあたかも南方での激しく過酷な戦争がなかったかのように思われてしまい、誤ったメッセージとなってしまうのではないか、とずっと考えていました。

そんな時に、共通のご友人から『郷土をかざき』という、昭和14年に「岡崎市銃後奉公会」から発刊された文集をお預かりしました。
その内容のほとんどは、満州や中国戦線に出征している兵隊さんたちへの応援や、励ましに満ちていて、自分たちも勉強や体操、貯蓄や生活の中できることに励みますという内容であふれていました。
その内容を読んで、「つながっている」と直感いたしました。
「出征絵日記」も「郷土をかざき」も岡崎空襲と密接につながっていると感じました。

「郷土をかざき」の発刊者である岡崎市銃後奉公会の会長・菅野経三郎氏は同時期に岡崎市長でもありました。

18歳でパイロットに志願した若者も、幼少時代から「郷土をかざき」の内容が示す時代の雰囲気の中で育っておられたのです。
そして、2年転戦ののちに日本に帰着した翌日、8月6日に広島に原子爆弾が投下され、8月15日に終戦。
そして8月30日に郷土・岡崎に戻られたとき、懐かしい岡崎は7月19日~20日の空襲によって焼け野原になり、ご自宅も焼失していたのです。
その時の彼の心境はいかなるものだったでしょうか。
想像するしかありませんが、私たちは想像しなくてはなりません。

そして、昭和14年に銃後奉公会会長として「天真爛漫なる児童の捧げる真心」を文集の巻頭で称賛していた菅野経三郎氏は、その6年後の夏、焼け野原となった岡崎市街地に呆然として立つ岡崎市長としてその姿を写真に残しておられます。

この空襲により、「郷土をかざき」に応募した子どもさんもご家族やお家を失ったかもしれません。

これは「現在にもつがって」います。そのような未来を二度と子どもたちに味あわせてはなりません。

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