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それでもやっぱり人間は、焙煎機の前に座り、パチパチと豆の弾ける音を聞く

天皇誕生日の日に、珈琲屋の店主にAIやばいよねっていう話を振られた。たしかにスマホアプリの更新通知にAI関連のアップデートが頻繁に来るようになってきてるし、ついに「個人的使いこなしたらかっこいいアプリNo.1」のNotion様も対応しだした。
かたや、かのchat GPT様もこのままだと今年の流行語大賞へまっしぐらだし、その他の御画像生成AI様方とかもめちゃくちゃ面白い。呪文唱えれば何でも作れちゃうやん、セコい。
面白いで終わればハッピー人生だけど、一応クリエイティブな仕事を志す僕みたいな人間ごときにとっては、どう使いこなすか、どう付き合うか、どう捉えるかを考えなければならないターニングポイントがきている気がする。それぐらいAI様には可能性あるし、人間如きに危機感もある。具体的な危機感は明らかで、「もう人間の作り手とか要らなくね?」「AI様に呪文唱えてたら、はい、おしまい。」みたいなやつ。

でもやっぱり僕たち私たち人間は、作るんじゃないかなと思う。僕自身、自分でもげんなりするぐらい絵心がないけど、たまにスケッチを書いてみたりする。それは"良い、速い、正確"を目指すための手段としてというより、なんとなく書きたい、自分でやりたいっていう子供心のような稚拙な動機であり、目的化した手段。そして、子供のような僕は鉛筆を握って嬉しそうに手を動かしたものの、やっぱり自分の左斜め上に現れた炭素の塊に青ざめる。
珈琲屋の店主も焙煎は自動でできるけど、やっぱり自分でやると言っていた。焙煎で200度ぐらいまで表面温度を上げるらしいのだが、豆の弾ける音とかで「お、この子はおとなしいね」とかなんなり独り言をいいつつ、火入れの塩梅を調整するみたい。

青ざめた自分をむしろ面白がって、次のスケッチこそは上手くいくかもと思って凝りもなく鉛筆を握る僕も、お客さんとの話に盛り上がり過ぎて火入れの調整を逃してそうな珈琲屋の店主も、「自分でつくってみる」ことの楽しさには何も及ばないことを身体で知っているし、それが何かAIとの共生への手がかりだと信じたい。


text by human

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