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「藤本さん、どうしてマジェルカをはじめたの?」~マジェルカカフェで代表藤本が語った、マジェルカ設立までのストーリー 《その②》

今日オフィシャルに話している以上に突っ込んだ、そもそものルーツ的な話をさせてもらおうと考えていたんです。
 
そもそも私は大学で社会福祉を学んでるんです。けれども福祉学んでるのもあんまり言ってなかった。っていうのは、=「障害者のためにしたいから始めたんですね」って思われるのが嫌だったし実際そうではなかったので。
 
そもそも福祉を学んだのも福祉の業界に卒業後進みたいって思いがあったんです。福祉の学科しか受けなかった。なんでそこの世界に関心を持ったかというと、知的障害で、特別支援学級に入っていた一番下の妹の存在です。
彼女とは一番近い立場の家族だったので、一緒にいることが多かった。
 
そして、自分の性質として、やりたくないことはやりたくない。理解・納得できないことはやれないっていうのが人より強いのかなって。福祉に進んだのも、「とりあえずなんか大学行く」ってことはできなくて、やるんだったらそういう自分でやりたいって思える仕事に就きたいっていうのがあって絞っちゃったんですけど。で、その結果福祉に進んだかっていうと、違いました。
 
学校の間で実習とか福祉施設も何回か行くんですよ。その中でだんだん福祉施設で働くのが嫌になっちゃったんですよ。なんで嫌になっちゃったかっていうと、若かったのもあるし、まあ行った場所も場所だったと思うんですけど、なんか楽しそうじゃなかったんですよね。入居者さんもそうだし、スタッフもけっこう、「やってあげてる」みたいな空気感がすごく強くて。そういう場所で自分が障害のある方と関わるのが嫌というより、福祉の人になるのが嫌だった。自分に合わない感じがして。
 
それで結局福祉の方面には進まないで、大学卒業した後はマジェルカを始めるまで20年くらい全くボランティアも何もせず福祉に関わらないで生きてきました。
 
 障害者のために活動を始めたって思われたくない部分が極端にあったので、「福祉やってたんで」とか「妹が障害者だったので」とかはあんまり出さないでいました。けれど、最近になって、それは背景としてあったかなっていうのは冷静に感じるようになったので話すようになりました。
 
 まあ妹が障害者っていうのは話したんですけど、うちは自体母子家庭でもありました。12歳くらいの時に母が父親と別れて、母が育ててくれて…今は結構母子家庭ってあるでしょうが、当時はちょっとそうでもなくて、けっこう「かわいそう」って言ってくる人がいたんですね。幸いいじめられることはあんまりなかったんですけれど。父親がいないっていうと「かわいそう」って目で見られる。そして、妹に障害があるってことでも「かわいそう」という目で見られたりすることが多かった。
 
あとはそういう環境で母親が私含めて子ども4人育ててたんですけれど、やっぱり一時期すごく生活が苦しくて。
 
だからそういう、妹が障害者だったり、母子家庭だったり、貧乏だったり、どちらかというと社会的弱者といわれる方にいて、気の毒がられたりかわいそうがられたりっていう目が向けられることが多かった。

でもね、子供心に、例えば「お父さんがいなくてかわいそうだね」って言われるたびに、「なんで?」っていつも思ってたんですよね。だった自分は「かわいそう」だと思ってなかったから。かわいそうがられるってことに対して、なんでそうなのかなって気持ちは常にあった。まあただ相手はね、優しい思いで言ってくれてたりするんですけど。

あともう一つ、妹に関して外からかけられる「妹さん障害者でかわいそうだね」についても同じように感じていました。まあ妹はいじめられたりもしてたんですけどね、そういう子供の世界って残酷だから・・・で、妹をいじめるいじめっ子のことを私がやっつけたりとかもしてました。まあそのくらい関係が近かったんです。
 
妹は、比較的ボーダーの知的障害でした。軽度のね。で、外の目というより、母親の目として、やっぱり障害のある娘に対して愛情が過剰だったり、ちょっとバイアスのかかった分け方をするっていうのはずっと気になっていました。具体的にいうと、まあこれもちょこちょこ書いてるんですけど、例えば妹に私が何かを聞いたり何か頼む、そうするとすかさず横にいる母親が妹の代わりに返事をして、「この子にそんなことできるわけないでしょ」とかね。何か聞いても答えるのは母親なの。で、妹がもじもじにやにやしている。で、幼いころの私が「そんなことないよ、できるよね」っていうと、もじもじしながら「うん」って言う。実際にできる部分もあったけど、親の立場からすると「この子にそんなことできるわけないじゃん」って。で、その辺の親と私とのやりとりは今でもずっと続いています。けっこう障害者の兄弟の人に特有な現象らしいですね。
 
私はほぼ生まれて物心ついたときは隣に彼女がいて、なんかこう、学校行ったときに左右の靴を反対に履いてるとか、靴下左右違うとか。なんか色々とんちんかんなことを普通に慣れていた。それを直してあげるとか、まあ時には恥ずかしくて一緒にいるの嫌だなとか思ったりしたけど、まあ親にとってはある時から障害者の親になって・・・やっぱりね、どうしても親心もあって、何でもやってあげようと思ったり、必要以上に過保護になったり。まあそれが時にね、「馬鹿なんだから」って言い方はひどかったと思うんですけど、そういう言い方になっちゃって。で、本人の力を出すとか発揮するとかよりも、まずは何かしてあげるってことになっちゃう。
 
それは今のマジェルカの考え方にすごく近いのかな・・・・・
それこそ「障害者のつくったものだから安く売らなきゃいけない」みたいな、「あんまりいいものつくれないから」っていう。
 
まあ当初私も私の周りの世の中の人も「障害者のつくるものなんて」って思ってたけれど、12年やってて感じるのは、実はその原因は、福祉の側にもあると思います。それは、障害者のものを安く売ったり、いいものを作れるのに勝手に、ここまでしかやらせないでいいよねっていう福祉の側の結果でもあると思うのです。結果的に、社会の人たちのアンコンシャスバイアスを生み出してる。
 
 
なんか、整理してなかったのであっち行ったりこっち行ったりって話になっちゃったんですけど、きっかけとしてそういう、前の仕事のつながりでっていうのはきっかけだったんですけど・・・その背景として私の価値観だったりとか、経験とかがあり、マジェルカを始めたのはその結果だと思います。
 
障害者のために何かしてあげたいって思って始めたんじゃなかったけど、やってる中で「あ、売れるとこんなに喜んでくれるんだ」って。喜んでほしくて始めたんじゃないんですよ、ほんとに。多分ね、喜んでほしくて始めてたら、続かなかったと思うんですよね。喜んでくれないじゃん。でもそういうつもりじゃなかったから、逆に、こんなに喜んでくれるの?って。あとはその作業所で働くスタッフさん達の頑張りが変わってくるというところとか。あとはまあ世の中の受け手の、買い手の、見る人たちがすごく感動してくれる。そういう喜びがあります。
最初は障害者の作ったものっていうので、けっこう拒絶反応もそれなりにうけるだろうなと思っていたけれど、今のところ12年間明らかにそれを受けてない。社会の人たちって、自分がそうだったように、知れる機会、見れる場所があれば、こういうのを受け入れてくれるんだなっていうのはすごく感じています。 
 

ボランティアスタッフたちと

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