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【過去記事】20141022 書斎に寄す

別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その4。ここまできてようやく、私はこの時期の自分の文章を振り返るのを避けていたな、と気付く。

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引っ越しをした。


学生時代は親の資金援助を得ていたので、地理的、金銭的な制約があったが、今回は、自分で場所や目的を持って住むところを決める自由を得た。

最寄り駅まで徒歩約15分。

さらに自分の通勤に利用する駅まで徒歩約20分という、住んでいた実家から比べるとやや不便ではあるが、暮らし始めて約2カ月、私はこの家をなかなか気に入っている。

2SLDKという不動産屋からの紹介で初めて知ったこの「S」というスペースは、「サービスルーム」というらしい。


窓のない、約3畳程度のこの部屋を下見時にみて、ひそかに私は暮らす場所として一つの夢を抱いた。

それは、書斎スペースをつくるということだ。

先日、机と、椅子を購入した。いま、初めてそのスペースでこの文章を書いている。

昔、本を読むことが学ぶことの基本的な営みである学生の身分に所属していたころ、本を読むにはそれなりの体勢があり、しかるべき場所で集中してその作業に当たるべきだと言われたことがある。


確かに、電車の中では読めない本があり、自分の考えを整理するその作業が、何かの片手間には出来ないものだと実感した私は、その境地に達するような真面目な学生ではなかったにしろ、いつか、本を読むことが自分の趣味であると言われてしまう時、そういうことができるよう、そのための空間と整えたいと思ったのだ。

机に、昔から使っている今はもう型遅れのパソコンを置いた。

そして、実家にいるときには見返しもしなかった過去のフォルダを開いた。

写真を撮る習慣のない私と信じていたが、しかし意外にも予期せぬところで思い出の写真が残っていて、それだけでなく、講義で提出したレポートも保存されていたため、時間の許すままそれを開いてはかつて自分がつづった文章を読んだ。

時間がたつ、ということは自分が少しずつ変わることらしい。

正直、今の自分だったらこんな書き方はしないというものも多々あったのだが、その時の自分の考えを言葉に落とし込み、外部に発信するということはとても重要なことなのだという結論に至った。

(という内容の文章も過去のデータにあり、テーマとして関心をもつ内容は今も昔も同じなのだと思った。)

書斎、というスペースは、私にとってある種の重荷なのかもしれない。

なぜかは分からないが、「読む」という行為と「書く」という行為に半ば脅迫的にこだわっている自分がいる。

「しなければならない」とでもいうような。

しかしある程度自分が自由に選択できる状況下において、わざわざ作った環境なのだから、そこはたとえ潜在意識にしろ私にとって重要な意味をもつものだと思いたい。


いや、思っているし、それを形骸化したくないという望みがあるのだ。


このスペースで、私はどれだけ自分と向き合っていけるだろう。
つくづく感じたことだが、思考する、という作業は個人的なもので、そこに行き詰りを感じた時、他者の存在が必要になる。


じぶん、つまり「ひとり」と、とことん向き合いながら、しかし自分の考えが孤独なものではないという救いを得るには他者が必要で、その救いを胸に、また「ひとり」に戻る。

ひとり、と、ひとりではない、を行き来しながら、私は私の考えの精度を上げていければいいと思う。

この部屋が、よき部屋となるよう希望を寄せて。

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