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「おいしいことば」

「からだが疲れたときにおいしい食べ物を食べたら体が元気になるように、心が疲れたときはおいしいことばを食べなくちゃいけないんだよ。だから私はあなたが大事だ、大切だって何回も言うよ。」

その言葉は私の凍った心を溶かしてくれた。
それはまるで氷が溶けるようだった。

氷はいつか必ず溶ける。
それがたとえ凍りついた心だったとしても、いつか必ず。

改めて内容を書くとしんどくなってしまいそうなので省略するが、私はいわゆる虐待を受けて育った。

看護大学に通っていた当時、小児と母性の授業でフラッシュバックが起き、日常生活がうまくできなくなったとき、幸いなことに専門的なトラウマ治療に繋がった。
けれども、その専門的な治療も一度はドロップアウトしてしまった。
トラウマに理解のある先生にさえ「助けて」が言えなかった。
「助けて」を言う選択肢そのものが自分の中に存在していなかった。

そして自殺未遂に至る。
当時は"助かってしまった"という絶望感が強かった。
その後、改めてトラウマ治療に繋がり言われた言葉が冒頭の言葉だ。

最初は先生と目を合わせることすらできなかった私に
「小さかった頃に甘えられなかったぶん、今甘えることは大事なことだよ」
と言って、お膝にコロンってさせてくれたりした。

先生との時間は私に多くの気づきをもたらしてくれた。

その先生は大学院生だったので1年間(6月から通ったので正確には8ヶ月ほど)しか時間を共有することができなかったが、私の人生においてとても有益な時間だった。もうお別れして7年になる。

今年、そのお別れが傷になっているということがはじめてわかった。

本当はあのとき、どこにもいかないでって
先生に言いたかった。
いつでも心にいるよって言われても
そばにいてほしかった。
お膝にころんってしながら
いい子だよって頭を撫でられたこと。
お膝にころんってしながら
大事だなんて言われなければ
愛情なんて知らないまま強く生きられた。
抱きしめられる温もりさえ覚えなければ
ひとに期待することなんて知らないまま生きられた。

そんな思いを抱えていたことに気づいてしまい1人枕に顔を埋めて号泣した。

その思いを今の先生に伝えたみた。

そしたら、気づけたことがすごいじゃない!って言ってくれた。
そして
「もうきっと、そういうことを安心して受け取っていいんだと思うし、受け取る価値がある人なんだと思うし、失う、という想定もしなくても大丈夫になってくるんじゃないかなと思う。今まで得られた温もりは確実に、どこかに、まいとくんの中に存在しているから。これからはもしかしたら、まいとくんがその温もりを発する側になるのかもしれないし、ていうかもう発してると思うんだけどね。そうして温もりを繋いでいくことを、恐れなくてもいいんじゃないかな。」
と言ってくれ、体がじんわりあたたかくなった。それは感じたことのない温もりだった。

たしかに、見えない。
けれど、ある。
これまでいなくなった人たちからいただいた言葉やぬくもりは確実に私の中に存在してる。

いろんな人からいただいた、その人たちのやさしさが、今の私を形成してる。
それってとてもしあわせなことなんじゃないか。
そう思うと、涙が溢れてきて止まらなかった。

私は家族からの愛情は受け取ることができなかった。
だけれども、これまでに出会ったたくさんの人たちからの愛情を受け取ってこれた。
いろんな人が私にその人が持っている愛情やぬくもり、やさしさを注いでくれ、しあわせな時間を共有してくれた。

こんなにも人のやさしさで作られている人間ってそうそういないんじゃないか。
そう思ってまた涙が溢れた。
みんなのやさしさがホンモノだったから、私は道を逸れずに真っ直ぐ生きてこれたのだと思う。
またまた涙が流れた。
本当に幸せ者だと思う。

たいせつなものはいつだって、心の中にある。
それは誰にも奪えない。
時間と共に忘れてしまわないように毎日抱きしめて生きていきたい。
そしてもっとも忘れてはいけないことは
それが当たり前にならないように
日々感謝の気持ちを忘れないこと。

自分にやさしく、人にもっとやさしく。

そしてこれまでにたくさんの方々から受け取ったやさしさを、次の誰かへ繋ぐために立ち上げた虐待どっとネット。(https://gyakutai.net)

私がつくりたい"ほんとう"のやさしいせかい。そのせかいをつくるためにはまず自分の組織で実現することだと思った。理念に賛同して集まってきてくれたメンバーはみんな本当にやさしい。もはや私にとっての心理的安全な居場所になっている。


自殺に失敗して8年。
正直、生きていてよかったとはまだ思えていない。
だけど、生きていてよかったと思える明日を迎えたいと思うようになれた。これはひとえに周りの人に恵まれたからだと思う。
死にたくてもいい。とりあえず生きてさえいれば、生きててよかったと思える明日は来るかもしれない。私はそれを信じていたい。

そして私は今日も生きている。

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