じんわりとした毒のような人の傷付け方

高校の頃の話。入学当初、僕は目立たずひっそりと、打たれる杭にならないようにしようと決めてた。
ふと気付いたら「優しい人」みたいなレッテルを貼られてた。別に嫌ではなかったし、特別目立っているわけでもない、どこにでもいるような高校生になれたわけだから甘んじて受け入れてた。ただ、食道に魚の骨が引っ掛かったような違和感だけは取れなかった。
僕の担任兼国語の教科担兼、僕が所属していた文芸部の顧問の先生がいる。新任の若い女教師。その人にも「無理して優しい事はするな」って言われた。
無理をしていたわけじゃない。痛くも苦しくもない。ただ、違和感としか言い表せないような異物感。僕は何気なく「優しさってなんでしょうね」って訊いてみた。その人はノータイムで「知らん」って言った。仮にも国語の教科担が。
その次に、「それを考えてる時点で、あんたは優しい人間なんかじゃないって私は思うけどね」とも言われた。
「褒められたくないなら、褒められるような事すんなよ」。
僕が知りたい事とは少しズレているような気がしたけど、それもそっかと何となく納得したから、僕はやりたい事やってみようかなって思った。学校もテストもサボる、授業中に教室を抜け出す、毎週木曜は午後から登校する。当然その教師にも迷惑は行ったかもしれないけどそれは知らん。だって貴女が好きにしろって言ったんでしょ。
また学校を抜け出して海に行こうとした時、とあるクラスメイトとすれ違った。その人は僕の帰宅準備万端の姿を見て、笑って「自由過ぎでしょ」って言った。


優しいね、自由そうだよね。この二つが多分、僕の人生で一番多く言われてきた言葉じゃないかなあと思う。それで、僕はこの二つを言われるのは好きじゃない。
本当に優しい人って、見捨てる強さもある人なんだと思う。悲しむ人がいた時、僕は声をかけたくなる。声をかけると思う。でも、泣き喚くその人を無視して、めいいっぱい泣かせて、気の済むまで悲しませてやる方法もあると思う。僕はどちらかと言えばそちらの優しさに惹かれるし、そうできたらいいなと思う。でも結局はそうできない。

どこかを探せば、今自分が一番欲しい言葉があるのは日本語の便利なところだと思う。偽善って言葉は使い勝手が良くて、人を褒める時も貶す時も、使い方を適材適所に変えられる。つまり、僕は後者なんだよって言いたいだけの話なんだけど。

根本的に人間が好きじゃない。なのに、本当にシミ一つない純粋な優しさがここにあってたまるかってなる。傍目から優しさだなんだと映るような言動を取るのは、ただの快楽でしかない。
だってそうでしょう、見てくれだけで人を助けて、少なくともこの瞬間だけは自分はここに必要な存在なんだと思えて、あわよくば誰かから良い人間だと思われたくて。そんなのが優しさであっていいはずがない。
そりゃあやらない何とかよりやる何とかみたいな言葉もあるけど。それは「善」であっても「優しさ」じゃないだろ。

何が言いたいかって、本当に優しい人っていうのはきっと、誰に何も言われなくても、世界の裏側でひっそりと頑張る人だと思いたい。
優しいねって言われる度、少しずつ、僕は何もかもが嫌いになる。摩耗していく。僕はそんな人間じゃないんだよ。もっと断罪してくれよ。


制作展なるものがあって、そこで少し交友のあったイラストレーターの人と久しぶりに再会した。別に話なんてしなくてよかったけど、目が合ってしまって、どちらからともなく距離を縮めた。その程度の関係。
その人の絵を見て、やっぱり上手いなってバカみたいな感想だけが浮かんで、僕は何気なく「良い絵ですね」って言った。
そしたらその人、「そう思いますか?」って僕に訊ねた。僕が「僕は絵に関して素人ですけど、お上手だなとは思います」って言ったら、その人は照れたように、いや違う。困ったように苦笑いした。
「私はあんまり好きじゃないんですよね」「満足してないんですよ」「最後なのに」。

往々にして、誰に見向きされなくても、自分だけが理解していればいい、自分だけが突き詰められればいい。自分が納得すればそれでいい。そういう星の下に生まれた人間を、まあ天才って呼んだりする。
そのイラストレーターの方が天才かどうかはこの際置いとくけど、でも、やっぱりいいなって思ってしまった。この人はこんなにも苦しんでるのに、もがいているのに、いいなって思った。僕もこうなりたいなって思った。他の何を犠牲にしても、何を捨て去っても、たった一つ、目の前にある白紙とだけ向き合えるような人間。いや、人間じゃなくてもいい。そんな創作の化物になりたい。

僕が間違いなく天才だと確信している人間が僅かにだけいる。その中の一人に、高校時代の先輩がいる。どれだけ小説を書いても、どれだけ本を読んでも、あの人を超える文字は無いなって今でも思う。
その人に、「天才ってなんだと思いますか」と訊ねた事がある。その人は真面目な話というかシリアスが嫌いだったから最初はふざけてたけど、僕が真剣な雰囲気を出すと仕方なしって感じでこう言った。
「自由に一番近くて、一番遠い人の事じゃないかな」

別に天才になりたいわけじゃない。いや、なれるならなってみたいけど、でも、望んで手に入るものではない。望んで努力して手に入れたならそれは秀才とかって言われる。
天才が自由なら、僕は天才になりたい。でも、自由じゃないなら天才になんかなりたくない。つまり僕は天才とか天才じゃないとか、そんなのどうでもいい。僕は自由になりたい。


ここまで書いて何が言いたいのか分からなくなってきた。ただ自由になりたいって言いたかっただけな気もするし、もっと別なもののような気もする。

本当に自由なら、僕はこんなに苦しめられてないと思いたい。優しい人は優しさについて考えないし、自由な人は自由について考えないと思う。
なりたいものになれてもいないのに、それを言われていい気分になんかなるはずもないって話かな。「天才だね」って、その人の裏の努力全部否定してるみたいじゃん。まあそれを差し置いても、僕はあの先輩の事を天才だって勝手に信じ続けるけどさ。

自由だよねって、そりゃあ僕だってなるべく苦しいところは隠そうとしてるからね。優しくない部分は見せないし、苦しそうなところなんか見られたくない。それが人間でしょ。
自由ってなんだろうとか、そんなのはもう面倒くさい。ただ、じわじわとシミを広げるように侵食していくこの仄かな息苦しささえなくなれば、その時やっと自由になれると思いたい。あるいはそれが死ぬって事なのかな。


高校をサボり過ぎたツケが回ってきて、結局僕は中退する事にした。まああの文芸部に心残りはほぼ無いし、先輩ももういないし、別によかった。後輩頑張れとか、そのくらいだった。
最後に担任兼国語の教科担兼顧問の先生と話した時、僕は「あの教室とか、クラスメイトとか、そういうのはあんまり好きじゃありませんでした」って話した。そしたらその人は溜め息を吐いてこう言った。
「あいつらはあんたの事が好きなのに、あんたはそれを信じられないのよね」
聞けば、僕がいなくなった後で、授業を潰して僕を探したりしたとか何とか。まあそもそも学校にいない時点で見つけられるわけもないんだけど。
当然だけど僕はそんな事知らなくて、僕が知らないだけで、見ていないだけで。そういうものはいくらでもあるんだよ、きっと。まあ授業を潰す口実に使われてただけで好かれていたわけではなかったんですけどね。


不用意な言動ってやっぱり人を傷付けるよなーって話。何も知らないのに、知ったような事言わない方がいいもんな。
でもきっと、知ろうとしても知れない事はいくらでもあって、全部知るなんて事は土台無理な話で。
やっぱり人って口を開くと誰かを傷付けると思う。もうそれはしょうがないと割り切るか、口を閉ざしてしまうか。どっちがいいとか知らないけど、僕は後者がいいなって思うよ。傷付く人なんてそりゃあ少ない方がいいもん。

傷付けない為なら、嘘も方便だと思う。騙すのも悪い事じゃないって思う。僕はそうやって選択肢を取ってきた。全人類とか大層な事は言わないけど、目の前の手に取れるくらいの人なら、不格好に嘘をついてでも騙してでも護りたいって思う。

それでも、誰かを言葉で傷付けて、一生消えないような瘡蓋を付けて。それでその人の呪いになれるなら、それもいいかもしれない。なんてね。
僕はあなたの呪いになってみたいんだよ。

まあこれも誰に向けるわけでもない言葉だけどさ。

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