言の葉とは言うが、いつかそこに花は咲くのだろうか。あるいはそこに花言葉はあるのだろうか。

考えてみても、そんな記憶はどこにも無い。でも、春になりかけの朝の空を見て、朝顔の花弁みたいだ、懐かしいな、と思った。同時に苦しいなとも思った。


やっぱり違う。そうは言っても、僕は言葉を使いたい。僕の言葉で人を殺せたら幸せなはずなんだと思いたい。
言葉を習ったのはここ最近の事で、僕という人間が形成されつつあったあの頃、僕の手にはそういう類のものは何も無かった。
風に香りがあるだなんて考えもしなかったし、どんなに綺麗な月でも月だったし、良い人は良い人で嫌な奴は嫌な奴で。それで、いや、だからこそ、あの人は僕の始まりで全てで。
でも、言葉を習って、世界は少しずつ変わっていった。多分、あの頃の自分が嫌いな方へ。

色々と思う事はあって、少しずつ身辺整理というものをしている。高校時代に使っていたUSBを掘り出して、そこに詰まっていた過去の言葉達を思わず読み耽ってしまった。下手くそで面倒くさくて何だかドロドロしていて。でも、あの頃の僕は、たった一つの物語にピリオドを打つ度に一々泣いていた。まだ不格好にしか使えないおもちゃが楽しかった。僕は多分、この為に生きてるんだって、そう思っていた。数年後にその言葉達に苦しめられるなんて思いもしなかった。
途中、書きかけの小説を見つけた。覚えてないけど、続きはまた後で書こうと思ったのかもしれない。トイレに行ったのか、煙草を吸いに行ったのか(褒められる話ではないけどその頃から吸っていた)、あるいは誰かに呼び止められたのか。
当時の僕は何を思っていたのだろう。何を書きたかったのだろう。どんな風に続けて、どんな風に彼と彼女を生かそうとしていたのだろう。それを知る術はもう無い。
申し訳ないなと思った。例えば、この続きを適当に書いて適当にまたピリオドを打つのは簡単だと思う。でも、それを誰が望むだろう。少なくともあの頃の僕は怒るだろうな。書き進めたところで僕は苦しいだけだし、書き終えたところで僕はもう涙の一滴も零す事はない。それがひどく寂しい。
過去を再生できない僕にできる事なんて何も無い。だからせめて、死んで欲しくはない。そう思うくらいだ。変わっていく事は当たり前で、悲しくて、とても嫌な事だ。こんな僕を許してくれなくていい。でも一つだけ望みを言ってもいいなら、やっぱり小説なんて書かないでくれ。もう二度と、誰にも望まれない言葉なんか紡がないでくれ。矛盾してるのも滅茶苦茶言ってるのもよく分かっている。でも、それでも。たった一人の想い人を振り向かせられないような、誰も殺せないような、誰も救えないような、そんな小説なんか書かないでくれ。

僕が嫌いな方向に足を進めていたら、飛び出したいと思っていた小さな世界をいつの間にか飛び出ていた。もしかすると必然だったって事かもしれない。でも、存外世界ってどこまで行っても変わらないんだなって思った。理不尽が溢れてるし、煙草も本も値段が高いし、夏は馬鹿みたいに暑いし。
その代わり、たくさんの人と関わった。僕よりも美しく文字を操る人がいて、初めて本気で尊敬できる大人がいて、初めて音楽の趣味で盛り上がれる人がいて、初めて僕を好きだと言ってくれた人がいて。何も変わらないでいたい僕を嘲笑うように、周囲は目まぐるしく変化していく。
その中で明確になるものもあった。そりゃあ人ってのは何かしら隠し持って生きているものだけど。でも、じゃあそれを全部見せられればいいのかって言われるとそれも分からない。昨日まで綺麗なビー玉だったものが、たった一瞬で土に汚れた石ころみたいに見える。せめて知らないままでいたかった事だってきっとある。あるいは逆もあるかもしれない。意識もしなかったような石ころが、宝石みたいに尊く思える瞬間だってきっとあるのだろう。そして、その一瞬一瞬はやっぱり言葉達が作り出してしまったもので。
そうしていくうち、何が本物なのか分からなくなる事もある。今自分が手にしているものが綺麗なのか汚いのか。そんなのは自分次第で見方は変えられるのかもしれないけど、生まれてしまった不信感を僕は拭えない。
じゃあ、本物はどこにあるんだろう。本物がとても苦しくて辛いものだった時、それを手放せる勇気が僕にあるだろうか。


手放さなきゃいけない僕とは対照的に、手の平に雪がぽつぽつと落ちてくる日があった。最後の学校からの帰り道だった。意味はあまり分かってないけど、モラトリアムみたいなものを手放さなきゃいけなかったらしい日だ。当然と言うべきうかそんな事できないのだけど。
目の前に降り舞う白、でも、僕の耳には青が注がれていた。イヤホンからは大音量でとある曲が流れていた。
全部終わったんだと思うと、こんな僕でもいつも通りの心情とはいかなかったらしい。心がざわついて、何かでごまかしたくて、曲を流した。数百曲はあるだろう中からシャッフル再生をして、数年来の付き合いのiPhoneはこの曲を選んだわけだ。どうにも持ち物は持ち主に似るらしい。
この学校で、この三年で、何か一曲だけ選べと言われたら、するりとこの曲名を呟くだろう。この曲に三年が詰まっていると言い換えた方がいいか。

例えば、この人生を一冊の本にした時、章題になるであろうワードみたいなものがいくつか散りばめられている。かつて僕を救ってくれた「音楽」とか、高校時代のあの「先輩」とか、今も僕をずっと苦しめ続けている「小説」、あるいは「言葉」とか。
その中でも「音楽」というものに、どうしても在ってしまう命題みたいなものがある。僕の人生の中で、本当に大切な曲を選ぶなら何の曲を選ぶだろうか、というものだ。22年の中で、まだ二曲しか決まっていなかった。これは慎重に選んでいるから、どれだけ好きな曲でもそう簡単にはカウントしなかった。
 ラスカ/ゲスの極み乙女
 あしたを見上げた夏の終わり/Nayuta
 メトロノーム/米津玄師
 Bring Back Summer/Sizimi
 形ないもの/GLIM SPANKY
 メルヘンとグレーテル/RADWIMPS
 No title/REOL
 春夏秋冬/sumika
 夏の半券/みきとP
 ゼロ距離/SUPER BEAVER
 車輪の唄/BUMP OF CHICKEN
 地球最後の告白を/kemu
 それでも僕は/yama
今逡巡して思い出した曲がこの辺。もっとたくさんある。数えきれないくらいある。それでもカウントしない。誰に言われるでも聞かれるでもないのに、慎重に、厳しく考える。

どこかでこの話はした気がするけど、高校時代は授業をサボって海に来ていた。どうして海だったんだろうって今でも考える。一番は近場だったからだけど、でも少し先には本屋もあったからそれでもよかったのに。
とある小説に、二人が偽物の海にいるシーンから始まるものがあって、そこで好きな一部分がある。

「こう、先端になってるっていうか、岬というほどじゃなくてもたとえば防波堤とかでもいいんですけど、これより先に何もない場所っていうか」
(中略)
「斎藤さんは行き止まりが好きなの?」
「そうじゃないですけど、ここが終点でもうこれより先に行かなくていいっていう安心感があるんですよ」

insubstantial substance/正しさ

何も無い水平線をただ眺めて、名前も分からないような何かに傷付いていたい瞬間、意味の分からないような焦燥感に泣きたくなる瞬間。そういうものがきっとあるのだ。
僕はそこで何をするでもなく、たくさんの音楽を聴いた。その中でも一曲だけ、今も自分の中に大切に在る、人生を構築している一曲がある。

いつか君に捧げた歌
今じゃ哀しいだけの愛の歌
風に吹かれ飛んでゆけ
僕らが出会えたあの夏の日まで

Calc./ジミーサムP

出会いも別れも愛も君も。全部が緻密な計算と、そう思いたいだけの弱い僕らの為の慰めの曲。こういう夏の青春を切ない歌詞にして、しかも爽やかなロックでまとめられると弱い。
夏の何も無い海の水平線を眺めながら、この曲を聴いて、たった一人を思い出しながら涙を流していた。どこかの知らない誰かの計算通りに、僕の世界からは何も無くなってしまった。

それからまたしばらくした時、僕はとある女性アーティストにはまっていた。一番有名な曲が世の中で大流行して、流行には少し遅れて乗るタイプの僕は、その時に初めてちゃんとその人の曲を聴いた。それで、赤色が目立つジャケットのアルバムの、その一番最後に収録されている曲を聴いた。

ファインダー越しに見える
笑った顔が好きでした

漂白/あいみょん

よく覚えている。自分の部屋で小説を書いていて、何かいい感じの曲を流しながら書きたいなと思って、このアルバムを再生して、この曲が流れてきた瞬間の衝撃。
時刻は夕方くらい。窓からは眩しくて目が痛くなる夕焼けが差し込んでいて、気付いたら僕は泣いていた。夕焼けが酷く怖くなって、泣きながら布団にくるまった。それで、布団の中で延々とこの曲だけをリピートし続けていた。
あまりに完璧すぎる歌詞は言わずもがな、音が、いい。もしも僕が曲を創るならこういう風なリズムにしたいと何となく思っていた事とか、バラードだとこういう旋律を組み立てられると弱いと自覚していた事とか、そういうものが全部詰め込まれていた。
それで、たった今聴いただけのこの曲の映像が鮮明に脳内で再生されたのだ。過去と分かるようなざらついた画質の写真とか、それこそファインダーの枠に映るあの人の姿とか、畳みかけるようなCメロに合わせて連続で映るあの思い出の場所とか、アウトロではきっと、夕焼けの乱反射する海沿いを大人になった自分がカメラを持って歩いているのだろうなとか。とにかく、そういうものがどこまでも鮮明に想起された。
僕はこの時、一つの浅はかな夢ができた。もし、走馬灯というものがあるのなら、その時はこの曲を流してほしい。スタッフロールが流れるのなら、その少なさに思わず鼻で笑ってしまいたいし、海沿いを自転車を押しながら歩く僕と彼女の映像を見て、こんな時まで存在しない記憶に縋るのかと自分の情けなさに呆れてしまいたい。
ようやく涙と気持ちが落ち着いて布団から出ると、すっかり夜になっていた。書いていた小説を全て削除して、この曲をモチーフにした小説を一から書いた。20万字にもなってしまって、ラストシーンにはこの曲の歌詞を繋ぎ合わせた場面を散りばめた。
どんな時だってあの日を思い出せば、そうでなくてもこの曲を思い出せば。こびり付いて落ちない汚れを洗い落とせるかもしれない。優しく、白い泡で漂白できるかもしれない。それを祈っていたい。

ふわふわの泡みたいな、白い雪が手に溶けていく。僕の耳元では、彼女の声で、彼の言葉を唄っている。青が、鳴っている。

エルマ、君なんだよ
君だけが僕の音楽なんだ

藍二乗/ヨルシカ

Calc.、漂白。それに続いて、藍二乗もそうだろうと、ふと思った。どうして今までそうしなかったのか不思議なくらいに。もっと切実に悩んだ曲はいくらでもあるのに、それが嘘みたいに自然にそうなった。
ヨルシカの、n-bunaの切実さが好きだ。彼の言葉は悔しいくらいに、気持ち良いくらいに僕の人生かもしれない。
誰か特定の一人を指しているわけではないのだけど、この人生で一番強く君を求めた時間だった。こんなにも君で満たされる瞬間がこの先あるだろうか。そう思うくらいに。僕の全てが君だったと感じるほどに。
上手く言えないけど、僕が死んだとき、君は泣いてくれるだろうか。泣かなくてもいいよ。君が死んだとき、僕は泣けるだろうか。分からないよ。でも、この先続くであろう人生で、日々の欠片から僕を思い出せばいいのに。小説を読む度に、男主人公と僕を比べて僕基準でどういう人間かを判断するようになればいいのに。どうしようもなく死にたくなった時、ふと僕の事を思い出せばいいのに。この曲を聴く度に、僕の顔を思い浮かべればいいのに。n-bunaとは似ても似つかない、気持ち悪い願望を抱いている。あるいは、僕が君に対して抱いている願望かもしれない。花の彩とか、鳥の囀りとか、数えるほどしかないであろう世界の美しさの上澄みを、君に伝えに行きたい。
君なんだよ。君だけが僕の言葉なんだ。

言葉が僕の全てだ。言葉が僕の世界だ。それはきっと、言葉を習う前から、僕が知らないだけでずっとそうだったんだと思う。
花の彩があるだけ、その数だけ、世界は色がある。
鳥が囀れば、その鳴き声が音になる。言葉が音になる。
風が運んでくれる香りは、遠い昔の懐かしい香りがした。
月は綺麗だった。言葉にするなら、寂しくなるくらい綺麗だった。

僕という一冊の小説を書く時、第一章のタイトルになるかもな、と思うような言葉がある。音楽も言葉も、何も知らなかったあの頃。でも、僕が最初に触れた言葉。それは僕が大切にしている三曲とはまた少し違う。そこに物語は無い。誰もいない。ただ、美しい言葉だけを並べたものだった。他には何も無かった。その美しさだけは間違いなく本物だった。だから僕は、どうしたって苦しくて辛い世界でも、上澄みの美しさを信じてみたくなったのだ。

愛することで得てきたこたえ
悲しいことが一つずつ消えていく
私は何か忘れていましたか
悲しみのない世界であなたを愛せるかな

花鳥風月/SEKAI NO OWARI


何かは分からないけど、何かを手放していく。
何かは分からないけど、何かが変わっていく。
何かは分からないけど、何かが終わっていく。
何かは分からないけど、何かとお別れになる。
ちょっと前にとある企画で書いた小説。あまり物語っぽくするのは止めて、どちらかと言えば詩に近いような形にしようと思った。なるべくなるべく、美しさだけを掬い取ろうとするとそうなった。

 一人で行くんだね、そうだね。もう会えないんだね、どうだろうね。さよならなんだね、そうだね。
 夜が晴れた。雲は晴れた。眩しくて綺麗な青空が広がった。寂しい心には、痛くて苦しくなるような空だった。
 一枚の航空券を持った君は、遠い遠い空へと消えていった。ずっとずっと遠く、ここじゃないどこかへと行ってしまった。

 ねえ、君は知っているかい。
 澄んだ青空が君の瞳だった事。
 厚い入道雲が君の言葉だった事。
 描かれた線が君の足跡だった事。
 僕の手に残った体温が、まだ僕を離さない事。
 
 ねえ、君は知らなくていいよ。
 君に伝え忘れた言葉があった事。

僕らのスコーク77

スコーク77というのは、いわゆる緊急事態宣言の信号の一種。
僕はここにいるよ、僕らはここにいるよ。僕らはここから逃げたいんだよ。そう言いたかったはずなのに。この言葉で、ここを飛び出したかったはずなのに。ここじゃないどこかで、二人で未来を見ていたかったのに。


過去を再生できないから、未来を見るしかない。いや、違う。過去を見つめたまま、ごめんねと謝るだけだ。君の言葉が、僕を苦しめている。僕の言葉は、君を苦しめる。誰にも伝わらないまま。
目の前のものが綺麗なのかそうじゃないのか、それすら分からない。でも、それを少しずつ丁寧に、一つ一つ言葉にしていく。その言葉だけがどうしようもなく事実だと思う。僕を苦しめた言葉達が、誰にも伝わらない言葉だけが、美しさや別れを伝えてくれる。少しでいい、僕は僅かなそれを信じてみたいんだ。

僕は自分の小説が嫌いだ。言葉が嫌いだ。でも、言葉を信じているのも本当だ。自分が書く言葉は、自分の頭に浮かんだ言葉は、きっと本物だ。
だからこそ、言葉であの子を救いたい。言葉であの人に僕を知って欲しい。言葉で彼女を呪いたい。その本物の言葉で、君を殺したい。そういう、どうしようもないような想いが募っていくだけ。
それで、君の中で僕が永遠になれたら。言の葉の種を植え付けて、寄生して、一生その心を蝕めたら。朝顔のつるのように絡みついて離れないような言葉が育ったなら。その時は、花の咲く頃に君の言葉で僕を殺しに来て欲しい。僕も同じように、何度だって言葉で君を殺してあげるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?