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がぶがぶ人間盛衰記 著:新荘 直大

 中津かさねは、新種の人間だった。
 彼女曰く、がぶがぶ人間なる新たな人類なのだという。
 常人では考えられないほど強靭な顎と丈夫な歯をもち、堅焼きせんべいだろうが、削る前の鰹節だろうが、前歯で軽々と噛み砕く。さらに彼女は、とりあえず何でも噛んでみるという恐るべき習性の持ち主であり、鉛筆から文庫本、電柱から自動車にいたるまで目に入ったものは何にでも噛みついた。
「噛んでみると、そのものへの理解が深まった気がするんだよね」と彼女は言った。
 幼い頃、両親は彼女を心配し、小児科から、内科、口腔外科、歯科医から精神科にいたるまで、あらゆる医者を訪ねたが、どの医者も不明瞭なことを言うばかりで、何の解決にもならなかった。わかったのは、彼女は普通の人間ではありえないくらい強靭な顎と歯をもっているということだけだった。
「何でも噛んでしまうことについては、心持ちの問題だと思います。大きくなるにつれて、自然に治ると思いますよ。」
 何回かの通院のあと、さじを投げたように精神科の医師は言った。

 実際には医師の予想は外れ、彼女のがぶがぶ人間ぶりは二十一歳になっても健在だった。
「たぶん、新種の人間なんだと思う」と彼女は言った。
 彼女の言葉からは、がぶがぶ人間として生まれた人生を全うするしかないのだ、という悲壮な決意が滲み出ていた。
 僕たちはサークル終わりに、大学の正門を出てすぐの古ぼけた喫茶店ルソオの二階でコーヒーを飲みながら話していた。僕たちはどちらも文学研究会というサークルに所属していた。年に一度部誌を発行する以外は、毎週部室で雑談しながら読書をする、という気楽な文化系サークルだ。たまにしかこない部員を入れても、総勢七名。僕たちの学年は、僕と彼女だけだったから、自然と彼女とはよく話すようになった。僕たちは、ときどき活動終わりに喫茶店に寄った。といっても、二人ともそれぞれ読書をしたり、大学の課題をこなしたりと思い思いに過ごすことも多かった。二時間大した会話もせず、そのまま解散、ということもあったが、それはそれで居心地がいいと僕は感じていたし、彼女もおそらく同じように思っていたはずだ。
 だからこそ、その日、彼女が唐突に、わたし、がぶがぶ人間なの、と打ち明けたとき、余計に面食らうことになったのだ。だが同時に、僕は嬉しくも感じていた。読書や趣味の話で盛り上がることはあっても、彼女が自分について語ることはほとんどなかった。だから、これは彼女について理解し、関係をより深めるいい機会だと思った。多少それが込み入って、風変わりな身の上話だったとしても、である。

「それで、噛むとどんな味がするの?」
「味というよりも感情がじゅわって染み出してくる気がする。しかも私のがぶがぶを通して相手にも感情を伝えられると思うんだよね。」
 どうやらがぶがぶ人間は、独自のコミュニケーション手段を有しているらしい。
「たいていの相手には、噛んでも中津さんの気持ちは伝わらないんじゃないかな。」
「たぶんそうなのよね。だから私は孤独なの。」
「他のがぶがぶ人間には出会ったことないの?」
「今のところはね。」
 私はこの地球でたった一人のがぶがぶ人間なのかもしれない、と彼女は言った。
「星の王子さまの惑星の薔薇みたいに?」
 彼女は少し考えたあと、そうかもしれない、と言って軽く微笑んだ。
 彼女はストローの先を少し噛むようにして、アイスコーヒーをすする。考えてみれば、それは彼女のいつもの癖だった。
「物心ついたときから、目についたものは手当たり次第がぶがぶしてきた。何も噛むものがないときには、自分の指とか二の腕を噛んでたと思う。」
「自分を噛むとどうなるの? 安心できるとか?」
「うん、自分のなかからそのときの感情が滲みだしてくるのよね。それで、やっと悲しかったとか、嬉しかったんだ、って気がつく。」
「それをやめようとは思わなかったの?」
「何度も思ったし、周囲の大人はみんなやめさせようと必死だった。でもこうしないと私は誰ともうまく関係をもつことができないの。自分の気持ちさえよくわからない。母がずいぶん私のことを気に病んでたのも知ってるし、そのことも申し訳なくは思ってたんだけど。」
 それでも彼女は、あらゆるものに噛みつくのをやめられなかった。
 だから彼女は、自分はがぶがぶ人間という新たな人間に生まれついたのだ、と思った。全てをがぶがぶするよう最初から定められた生物。
「これでも成長するにつれて、既存の人類とうまく共生するすべを身につけてきた。小学校や中学校のときは、もっとずっとひどかったわ。」

 がぶがぶ人間としての彼女の全盛期は、小学校のときだった。当時の彼女は、まだ自分ががぶがぶ人間なのだと気がついていなかったが、両親に連れられていくつもの病院をめぐるうち、自分は普通の人間とは少し違うのだろうか、と思いはじめていたという。
 小学四年のとき、まゆこちゃんとある男子が言い争いになったことがあった。まゆこちゃんは、彼女と最も仲が良かった女子だ。発端は、休み時間にその男子(賢太郎、だったかしら)がまゆこちゃんの新品の筆箱を取り上げたことだった。その男子は普段から乱暴で、何かと言えばまゆこちゃんにちょっかいを出していたから、中津さんは彼があまり好きではなかった。まゆこちゃんは、かえしてよ! と怒鳴り、飛びかかって筆箱を取返そうとした。男子は、うるさいブス、と言いながら素早く身をかわす。まゆこちゃんは半泣きになりながら、かえして! と叫んだ。
 中津さんは、それまで二人のやりとりを側で見ていたが、おもむろに近づいていった。彼女に気がついて、取っ組み合っていた二人は動きを止める。男子の方が、なんだよ! と彼女を威嚇する。彼女は無言のまま、その男子との距離をつめていく。時間が止まったように動けない彼を尻目に、もう二、三歩近づく。そして、突然彼女は、男子の首筋に噛みついた。そのあとは阿鼻叫喚である。驚きと痛みに男子は泣き叫び、まゆこちゃんもつられて泣き出した。すぐに教師がかけつけてきて、男子は泣きながら彼女を指さす。彼の首筋には、噛まれた跡が馬の蹄のようなかたちに赤黒く残っていた。彼は保健室に連れていかれ、がぶがぶ人間は職員室に移送された。
「私はただ知りたかったの。彼がどうしてそんなことをするのか。そのとき彼がどんな気持ちなのか。」
「噛んでみてどうだった?」
 彼女は、昔食べた食事の味を思い出すように、もごもごと顎を動かしながら少し考える。
「表現するのは難しいけど、悲しかった。噛んだとき、悲しさがじゅわって拡がったの。でも今そう思うのは、私の悲しさが混じっちゃっているからかもしれない。」
 結果的に加勢を受けたまゆこちゃんも、彼女を擁護はしてくれなかった。状況を確認する教師に対し、まゆこちゃんは気まずそうに何度か頷き、彼女がいきなり男子に噛みついたと証言した。その一件以来、まゆこちゃんとは何となく疎遠になっていった。あとでこっそり同級生の一人が教えてくれたのだが、実は、まゆこちゃんとその男子は、互いに好きあっていたのだという。そんなのクラスのみんな気づいてたよ。その同級生は言った。
 職員室での尋問で、がぶがぶ人間は歯を食いしばって、黙秘をしていた。教師たちは音をあげて彼女の母親を呼び出し、彼女は母親と一緒に職員室中を謝って回った。
 当然、その日の放課後、噛みつかれた男子の家にも謝りに行った。インターホンを鳴らすと、首にガーゼを貼った彼が母親の影に隠れながら出てきた。学校での粗暴さはなく、母親に甘えるわんぱく坊や、といった感じだった。
「このたびはうちの娘が本当にすみません。」
 彼女の母親が深々と頭を下げた。彼女は、じっと男子のことを見つめていた。母親の後ろで、怯えたような目をしていた。母親は手を後ろにまわして、逃げ出しそうな息子の頭を押さえつけるようにして撫でていた。
「いえ、お気になさらないでください。子供同士のケンカはないことでもないですし。」
 いえ、本当にうちの娘が悪くて。中津さんは無理やり頭を下げさせられる。
 男子の母親は、薄笑いを浮かべながら言う。
「お母さまも大変ですね。先生から伺いました。前にも何度かこういうことがあったって。私もよく知らないけど、きっとなんとか障害、ってやつなんでしょう?」
 彼女の母親は、いえ、とくにお医者さまは何とも言ってなくて、と言う。
 男子の母親は、息子から手を離し、恐ろしい、と自分の身を抱くように胸の前で腕を組んだ。
「最近はなかなかはっきり病名を告げないと聞きますからね。病名がないと対処しようもないのに。娘さんのこの先が心配ですねえ。」
 彼女の母親に心底同情するような素振りで、男子の母親は言った。
 次の瞬間、がぶがぶ人間は、男子の母親の腕に噛みついていた。噛みつかれた母親は、組んだ自分の腕に噛みついたがぶがぶ人間を見て、突然のことに腰を抜かしてしまった。中津さんは自分の母親に取り押さえられる。
「もう帰ってよ! この人でなし!」
 取り乱した男子の母親が玄関にへたりこんでそう叫んでいた。後ろにしがみついていた男子も狼狽してまた泣き出した。
 彼女は母親に羽交い締めで抱えられ、車に乗せられた。彼女の母親がもう一度深々と頭を下げたが、男子の母親はなおも、もう帰って! と繰り返していた。
 帰りの車のなか、不思議なことに彼女の母親はどこか清々しい顔をしていた。中津さんは、とんでもなく怒られるに違いないとびくびくしていたのだが。母親の機嫌がいい証拠に、コンビニに寄ってアイスを一本買ってくれた。彼女はソーダの棒アイスを選んで、車内で食べた。もちろん、母親はこう付け加えることも忘れなかった。
「これからは、あんまり人に噛みつかないようにね。」
 気をつける、と彼女は言った。
 アイスがなくなったあとも、木製の棒がくたくたになってしまうまで、彼女はいつまでも棒をがぶがぶし続けていた。

「それで、中津さんは今でもがぶがぶ人間なんだね。」
 彼女は、グラスの底に薄く残ったアイスコーヒーをすすった。彼女のストローは、噛んだ部分がわずかにへこんでいた。
「そう。全盛期ほど何にでも噛みつくことはしなくなった。でも、今でもがぶがぶすることが私にとって一番自然なコミュニケーションなんだよね。」
「どうしていま、話してくれたの?」
「なんとなく、そろそろ話した方がいいかなって。隠してるのも悪い気がして。」
 僕は何気ないようにして、一番気になっていたことを訊く。
「こうして話していて、僕のこともがぶがぶしようと思うのかな?」
 彼女は質問の意図をはかりかねたのか、少し首をかしげる。
「いや、別に深い意味はないんだけど。」
「今のところは別に思わないかな。君はおおむね論理的だし、感情が滲みだしてくるタイプには見えない。」
「つまり、美味しそうじゃないと。」
「そうかもね。」
 彼女はそう言って、少し笑った。唇のあいだから、綺麗な歯がわずかに見えた。

 僕たちは、それからもよくサークル終わりに喫茶店で話した。
 相変わらず読書をしたり、レポートを書いたり、黙っている時間も長かったが、以前よりは打ち解けて話をすることも多くなった。
 あの日以降、がぶがぶ人間について頻繁に話すことはなかったが、彼女のがぶがぶ人間ぶりは変わりがないようだった。僕はいつもアイスコーヒーのストローがほんの少し歪んでいるのを見ていた。
 ときには、彼女からがぶがぶ人間としての発見を共有してくれることもあった。
「車のハンドルって、とても不思議な噛みごこちがするのね。」
「噛んでみたの?」
「そう。教習車で教官の目を盗んで。」
「どうだった?」
「とても複雑。緊張や不安、恐怖、楽しさ、快感。ハンドル自体は、ぴったりと車におさまって役割を果たす充実感、誰かの手を受け入れるやわらかさを感じたけど、それを握ってきた人のたくさんの感情と絡まって、何とも言葉にできない噛みごこちだった。」
 人間が普段使っている言葉では、がぶがぶ人間の感覚を表現するには十分ではないようだった。彼女はずいぶん苦労しながら、より近い言葉を探し出してきて、僕にそれを語ってくれた。僕はそんな言葉に耳を傾けるのが好きだった。僕の知らない、僕の視界からは零れおちた世界をかぶがぶ人間は教えてくれた。僕もそんな世界を噛みしめてみたいと思ったが、それは勝手な願いだった。氷だけになったコーヒーのストローを噛んでも、プラスチックが抵抗もなくつぶれるだけだった。

 がぶがぶ人間であることの告白から三ヶ月ほどたったある日、いつも通りサークル終わりに喫茶店ルソオでコーヒーを飲んでいると、中津かさねは、僕に少しだけ顔を近づけて、言いにくそうに切り出した。
「相談したいことがあるんだけど。」
 彼女には珍しく、歯切れが悪かった。
 聞けば、バイト先の先輩から口説かれているという。彼女は一年ほど前から高級レストランでバイトをしていた。食べたこともない料理が賄いで出るから、という不純な理由だったが、存外きちんと働いていて、他のスタッフからも信頼されているようだった。
 彼女に迫っているのは、三歳年上の男性スタッフだった。彼は数年前から働いていたらしいが、夏休みに彼女がシフトを増やしたことで最近急に接点が増えた。初めは勤務後に食事に誘われたり、休日のデートに誘われたりして、体よく断っていたが、業を煮やしたのか、徐々に彼が露骨なアプローチをかけてくるようになった。
「家がずいぶんな資産家らしいのよね。お父さんがドイツ帰りの企業家かなんかで、彼はバンドマンをしながら、適当なバイトで暮らしてるって話。レストランで働いているのも親のコネらしくて、勤務態度はお世辞にも良いとは言えないわね。」
「小説みたいな話だな。それで、相談っていうのは、彼からお金を巻き上げる算段とか?」
 まさか、と彼女は言って、少し笑う。
「このままにしておけないとは思ってるんだけど、どうしたらいいのかわからなくて。」
「中津さんは彼のことをどう思ってるの?」
「態度も横柄だし、好感をもてる要素があまりない。」
「それなら簡単じゃないのかな。」
 彼女は、うーん、と唸ってストローを噛む。
「先輩を邪険にすると今のバイトに居づらくなる、というのもある。でも、それ以上に自分がどうしたいのか、よくわからない。」
「彼は好きじゃないけど、彼と付き合うことに興味があるということ?」
 彼女はグラスを傾けてコーヒーを飲み干し、残っていた氷をがりがりと噛み砕いた。彼女がそれを全部飲みこんでしまうと、空になったグラスと沈黙が残った。
 しばらくして彼女は、言葉を噛みしめるように、ゆっくりと再び話し出した。
「先輩は言ったの。俺と付き合えば、何でも与えてあげる。不安に思うことも、悩む必要も何もなくなる、って。」
 彼女はそこで一度深く息をついた。声が少しだけ震えていた。
「私にはわかる。先輩と深くかかわれば、がぶがぶ人間としての私は死んでしまう。彼は何でも与えてくれるかもしれない。でも、がぶがぶ人間ではいられなくなる。それなのに、がぶがぶ人間である限り、私は彼を拒むことができない気がする。私は彼に噛みつかなければならない。それが運命のように感じてしまうの。」
 彼女はそれだけ言うと、また息をついて黙りこんだ。彼女は途方に暮れていて、今にも泣き出しそうに見えた。
 僕は何か言おうと思って、口をもごもご動かしていたが、言葉が地滑りを起こしたように何も出てこなかった。たいぶ前から、いつか彼女に伝えようと用意していた言葉も、今では何の意味ももたないように思った。
 どれくらいそうしていただろうか。彼女は席を立って、今日はもう帰るね、と言った。
「変な話をしてごめんね。聞いてくれてありがとう。」
 いや、力になれなくてごめん。
 ううん。
 自分を大切にね。別れ際、やっとそれだけ僕は言った。彼女は、一瞬意味をはかりかねるような顔をしたけど、小さく、ありがと、とだけ言ってすぐに駅の方に消えた。
 それから三日後の夜、日付が変わるころに彼女からメッセージが来た。
『先輩からまた誘われたので、一度試しにデートに行くことになりました。このあいだはありがとう。』
 僕は、思い切り自分の腕を噛んだ。血が滲むまで噛みつづけると、少しだけしょっぱい気がした。顎が痛くなった。

 彼女から電話がかかってきたとき、僕は意味もなく棚の本を片っぱしから取り出して、並べ直していた。彼女から電話がかかってくるのは、それが初めてだった。
「急にごめん、今何してる?」
「特に何も。本の表紙を眺めてた。」
「何それ。今から大学の近くで会える?」
「もちろん。」
 彼女の声はどこか緊張していた。いつもの喫茶店は閉店している時間だったから、僕たちは駅前の居酒屋で待ち合わせることにした。
「デート、どうだった?」
 とりあえず、オレンジジュースと簡単なつまみを注文して、彼女に訊いた。
「普段働いてるのよりもさらに高級なレストランで、ナイフとかフォークがいくつもテーブルに並んでた。料理が延々と運ばれてきて、その間ずっと、先輩は自分の幼少期の思い出とか、複雑な家庭環境とか、金持ちの父親のもとで楽に生活する葛藤なんかを話したの。」
 金銭には困らないかわりに、彼の両親は常に対立していたという。浮気性な父親と諦め果てた母親。彼は父親に反発した。だが今は、バンドの稼ぎはほとんどなく、父からの援助に頼り、父の斡旋した実入りのいいバイトで生活をつないでいる。俺はどうしようもなく中途半端で甘えた人間だよ。
 何杯かワインを飲んで酔いが回ったのか、彼は顔を赤くしながらそう言った。
「先輩は、それでも俺はロックンローラーなんだ、って言ったの。ただの人間じゃない。ロックンローラーなんだ、って。」
 まるでロックンローラーであることが、彼にすべての赦しを与えてくれるかのように。
 彼は一通り自分の話が終わってから、君のことも教えてよ、と言った。
「私には、別に話すことは何もない気がした。先輩にもそう言った。ごく普通の家庭で、ごく普通に育ってきました、って。」
 結局、彼女はがぶがぶ人間のことは何も話さなかった。先輩の質問に答えるかたちで、地元のことや中高の思い出を一つ二つ話した。
 君ってちょっと不思議な雰囲気だし、面白い人だと思ってたけど、案外普通なんだね。
 気持ちよさそうに笑いながら、彼は言った。酔いで顔の外側がとろけてしまったような笑い方だった。
 店を出るとすぐに彼は、ホテル行こうよ、と言った。
「すぐ近くにいいホテル知ってるんだけど。リゾートみたいなやつ。」
「今日来たのはそういうつもりじゃなくて。」
「奢ってもらったくせにノリ悪いな。いいから行こうよ。」
 そう言いながら、彼女の肩に腕をまわす。
 すみません、私、いやです。
 ほんと、そういうのいいからさ。
 彼女を引き寄せようと、汗ばんだ彼の腕に力が入る。
 その瞬間、彼女は彼の手のひらに力いっぱい噛みついた。
 あいっ、という声をあげながら、反射的に彼は腕を振りほどく。自分の力の反動で、彼はふらふらと数歩よろめいた。
「何すんだよ!」
 怒りに任せて彼は叫んだ。ついさっきまで紅潮していた顔は、血の気が引いて蒼白になっていた。近くを歩く人が立ち止まって遠巻きに様子をうかがっている。
 彼女は何も言えず、大きく息をすって、それから吐いてを繰り返していた。噛みしめた歯の間でしゅー、しゅー、と息が音を立てた。
「口説かれたくらいで調子乗ってんじゃねえよ。お前みたいな女はいくらでもいるんだよ。ふざけんな。」
 彼は、それだけ言うと、あーもう、むかつくな、と言いながら、一人で駅の方に歩いて行った。
 一部始終を遠巻きに見ていた人が彼女に、大丈夫ですか、と声をかけた。彼女は軽く会釈をして、一人で近くの公園まで歩いた。顎は食いしばったまま固定されてしまったように、なかなか力が抜けなかった。

「もちろん怖かったけど、同時にどこか冷静な私がそれを遠くから見ているみたいだった。こうなることはわかってたじゃないか、って罰するように私のことを外から見てる感じ。」
 彼女はそこまで話すと、ふっと一息ついて、オレンジジュースを飲んだ。
「先輩と話してみて、この人、私の気持ちが全くわからないんだって気がついた。いや、ほんとはもっと前から気がついてたのかも。彼はがぶがぶしない。でも、もしかしたら、彼もがぶがぶ人間なのかもしれない、そう思った。彼だけじゃない。私が噛みついた男子も、その母親もみんながぶがぶ人間なのかもしれない。そうしたら、がぶがぶ人間が何なのか、自分が何なのか、わからなくなった。」
「彼に噛みついて何を感じた?」
「何もわからなかった。反射的に彼の手に噛みついて、反射的に彼は手を引き抜いた。そこには、私の反応と、彼の痛みがあるだけで、他には何もわからなかった。」
 彼女はまるで自分の手に噛み跡が残っているかたしかめるように、右の手のひらと手の甲を返す返す見た。

「今日は付き合わせてごめんね。」
 居酒屋を出て、改札の前で彼女は言った。
「もし不安だったら、もう少し一緒にいようか? もちろん、嫌じゃなければだけど。」
 そう言った瞬間、僕は自分がひどく場違いなことを口にした気がした。だが、彼女はほんの少し微笑んで、ありがとう、帰れるから大丈夫、と言った。
「あのさ、もう少しだけ、待ってほしい。もう少しだけ。」
 改札を通り抜ける直前、彼女はそうつぶやいた。何を、と訊こうと思ったけど、結局何も言わなかった。僕は、エスカレータで彼女が地下に吸い込まれていくまで、彼女を見送っていた。

 彼女のがぶがぶ人間としてのキャリアの終焉は唐突に訪れた。
 右下の奥歯が急に抜けたのだ。鈍い痛みがして、わずかに血が出ていた。
 驚いて歯科医院に行ったが、歯医者にも突然歯が抜けた理由はよくわからなかった。
「埋まっていた親知らずに押されたのかもしれません。普通は前兆もなく抜けたりはしないんですが、何か強い力がかかって、ぽろっと抜けたのかもしれませんね。」
 レントゲン写真を指差しながら、歯科医は訝しげに言った。
 僕がその話を聞いたのは、相も変わらず、サークル終わりの喫茶店ルソオだった。いつのまにか秋が近づいてきていて、サークルが終わるころには、西の空がわずかに色づき始めていた。
「ほんの少し親知らずが見えてるけど、うまく噛み合わないの。普通の食事には問題ないけど、今までみたいな力が入らない。」
「でも、普通に噛むのに問題ないんでしょ?」
「何かが違うの。噛みしめても何かが足りないことをいつでも感じる。自分に穴があいてしまったような感じ。」
「もうがぶがぶはできないってこと?」
「たぶん、がぶがぶ人間はもう死んでしまったの。」
 そう言って、彼女はアイスコーヒーをすする。丸くて傷ついていないストローがそこにはあった。僕の視線に気がついて、そろそろホットコーヒーの季節ね、と彼女は言う。
「悲しくはないの?」
「どうかな。まだよくわからない。でも、いつかはこうなるとわかっていたし、こうなることを望んでいたような気さえする。」
 僕は、日が沈みかけて一面が紫になった空を見ながら、がぶがぶ人間の一代記、その盛衰について思いをはせた。彼女もつられて、窓の外に目をむける。
 がぶがぶ人間は本当に死んでしまったのだろうか。僕はがぶがぶ人間がまだ彼女のなかで生きているんじゃないかと思った。しかし、それは僕にはたしかめようもなかった。
「君は私にがぶがぶ人間でいてほしかったの?」
 そうかもしれない。
 僕は、それが自分勝手な願いだと知りつつ、がぶがぶ人間になってみたかった。考えてみれば、彼女の先輩や、あるいは他の全ての人と同じように、僕だって少しくらいはがぶがぶ人間のはずなのだ。だが、何をがぶがぶしても、僕は自分の顎の痛みばかりが気になった。自分ががぶがぶ人間だと認めるには、僕はあまりにも自分の顎のことを気にしすぎているのかもしれなかった。
 僕たちは喫茶店を出て、大学の長いレンガ塀に沿って、二人で歩いた。
「ためしに私の手、噛んでみる?」
 おもむろに立ち止まって、彼女は僕の顔の前に手を差し出した。
 僕は思い切って、彼女の親指の付け根あたりを軽く噛んだ。彼女が、ふふっ、と笑って、くすぐったいよ、と言う。
「何か感じた?」
「わからない。でもやわらかかった。」
 そう、と彼女は言って、僕の手をとる。
「あなたのことも噛んでみていい?」
 もうがぶがぶ人間はいないけれど。
 僕が頷くと、彼女は僕の手首にやわらかく噛みついた。彼女の髪がさっと揺れて、腕をなぞった。心地よいくらいの痛みから、僕は彼女のことを知ろうとする。彼女のなかのがぶがぶ人間と密かな交流を図るように。だけど、僕がそこから知ることができたのは、ほんの少しだけだ。彼女の髪から柑橘のようないい匂いがして、つき始めた蛍光灯を受けて黒い髪がわずかに光っていたこと。とてもきれいな耳の形をしていて、耳たぶのところに小さなほくろがあること。それから。
「何かわかった?」
 僕は彼女に尋ねる。
「ううん、わからない。いや、ほんの少しわかったかな。でも別にそれでいいの。」
 彼女は僕の腕から顔を離し、手をとったまま、再びゆっくりと歩き出した。そして、言った。
「もう少し一緒に歩こうか。もちろん、嫌じゃなければだけど。」
 僕の手首は、彼女の唾液でわずかに濡れて、どこか欲情的だった。まだ歯形もほんのりと残っていて、わずかな痛みがあった。しかし、わずかに冷たさが練りこまれた夜の風がさっと吹いて、それら全てをかすめとっていってしまった。
 僕は一瞬、振り返って、風が去っていった方を見つめたけれど、すぐにまた前を向いて、街灯が照らす道を彼女と二人で歩き出した。

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