すでに与えられていた
一昨日の源会議の配信で すっごく泣けたことがあったのでシェアします。
源会議とは HAPPYちゃんのMOMEDLIVEにセットで
MOMEDの解説や意識の話、Q&Aなど
夜な夜な集まって、講義を聞くような定期配信です。
この日は、
【ひとりずつに無限にある幸せを可視化してみんなで持ち寄る】ワークの日
その例えとして、ワンホールのケーキを幸せの体現物として 各々が買い 持ち寄って食べてみる会が開催されました。
すごいよね、この企画。
謎だし、やらなくても人生なんて進んでく。
でも、やってみたらどうなるのか、それを知りたい!その好奇心がホントに大好き。
ちなみに私はケーキ用意できず😭
遅れてでもあとでやってみます。
Zoomをつないで画面上で写し出された それぞれのケーキを見ながら味わう。
見てるだけで幸せな光景でした。
それぞれが選んだ自分の好きな味、見た目、かたち、大きさのケーキ。
言わばそれは私たちの幸せだと。
ケーキを買うときに考えたのは、自分の好き。
それくらい幸せは単純にそして細やかに自分の好みを探っていくことだと。
自分の好きも嫌いも自分にしかわからない
それが私だけの素敵なこだわりであり、幸せのかたちや大きさ、量も 自分仕様、に用意できるものだと。
そして、それは 他人のケーキ(幸せ)を奪う必要もなければ、自分のケーキ(幸せ)が盗られることもない
↑Zoom上で見ると、区切られた画面からとなりの人のケーキに手を出すことができず、
とても分かりやすいです。
ワンホールケーキを自分に !
ってなったときに
その非日常感やケーキ=特別なものという概念から 色んな価値観や思い込みが出てきた
という話のくだりで、
『ホールケーキを注文して、その横にも好みの(心ときめく)ホールじゃないケーキがあった、
でも今日はホールケーキの日だしと思い、浮かんだ思考を消した』と
そこですかさず、HAPPYちゃんが
『なんで、二つ買わなかったの?』と
そしたらその方は、そういえば 小さい頃から親に『どっちかにしなさい』と言われてたと
だから無意識にもかき消したと。
いろいろ見え隠れする自分がケーキひとつであるんですね。
その話を聞いたときに、
そういえば、私は小さな頃、お菓子を買うときに迷ったら 『どっちも買いな』と父親に言われたなとぼんやりと思い出したのです。
今思えば、なんてあまあまな、なんて愛のある父だったのだろうと。
制限のある望み方ではなく、無限とは言わないまでもすごく自由に与えてもらっていたことが、今になって実感できて
愛されていたんだなと、今更ながらに胸がいっぱいになりました。
教育上なんでも買い与えるのは どうなのかとか そーゆー道徳的な観点は置いといて
無条件の愛 与えるだけの一方通行で満たされている豊かさを
私は小さな頃から与えられていたんだと
その思い出ひとつからでも、感じられて
本当に父親への感謝がひたすらに溢れました。
父はもう他界していて、思春期以降あんまり心を通わせてわかり合えた記憶もないまま
離別してしまったのですが
亡くなったあともなお、わたしが生きている限り、その記憶にふれ、思い出し、改めて存在への感謝が沸いてくる日もあるのだなと泣けました。
父の生きた証は私のなかで生きて
私の心に触れるとき
大切な何かを思い出させてくれる のかもしれない。
あんまり充実した親子でもなかったかなと思っていたけれど
どっこい、それは私の思い違いだったのかもしれません。
ケーキのワークとは感じるところが違ったかも知れないけれど
私にもとてもよい夜になりました。
ありがたい。ありがとう。
いただいたサポートは、藍染の活動に使わせていただきます。このnoteでその様子をフィードバック・シェアします。