第190話 お父ちゃん
二度寝で、ウトウトしてるときに『お父ちゃん』を思い出した。浅い眠りの中で夢を見たのだ。
お父ちゃんとは、僕の父のことだ。子どものころは「お父ちゃん」と呼んでいた。高校生になっても同じだったが、友だちには「うちのオヤジが」と、カッコウつけた言い方になった。就職し関東でしばらく暮らすと、『お』がなくなって、「とうちゃん」と呼ぶようになった。この「とうちゃん」は、対外的にも、お父ちゃん本人に話しかけるときにも、どちらにも採用された。
二度寝中の父は、僕が「お父ちゃん」と呼んでいたころの父だった。
◆お父ちゃんの概要
今は、たぶん天国にいる。60代の前半で他界した。医者の忠告をすべて無視して、肺が片方つぶれてもタバコを吸い続け、会社を定年退職してからは、毎日欠かすことなく朝から酒を飲み続けた。
「お酒とタバコを止めないと死んじゃいますよ」と言われても、「死んでもいい」とお父ちゃんは答えていた。誰に対しても、一貫して同じ答えだった。お父ちゃんは本心から『死んでもイイ』と思っていたのだろう。
悪いところが多すぎて、なんの病気が直接の死因かはわからない。ある朝、お父ちゃんは目覚めることがなかった。目覚めないお父ちゃんの身体は冷たく、お母ちゃんがどんなに起こしても、起きなかったのだ。だから、病死ともいえるるし、寿命ともいえる。そして、ある意味、自殺と言えるのかもしれない。
お父ちゃんは、顔は、高倉健さんに似てハンサムだった。
僕がそれに気づいたのは、伯父さんが高倉健さんに激似だったからだ。伯父さんとお父ちゃんは兄弟だから、2人は当たりまえに似ていて、「ああ、お父ちゃんも高倉健に似てるんだ~」と気づいた。そんな記憶がある。
ゆえに、3段論法でいけば、僕も、高倉健さんに似ていることになる。
なのに僕は、今田耕司さんをTVで観ると「わっ、オレやん」と思ってしまう。どこでどうズレたのだろうか。
ま、答えはわかっている。お母ちゃんの顔に僕はそっくりなのだ。もし、お父ちゃんに似ていたら、僕の思春期は、背景が薔薇に変わり、そして僕は、少女マンガの主人公を演じただろう。お母ちゃん似だったせいで、ギャグ漫画の、チョイ役だったのは残念でしかたない。
◆お父ちゃんは頭が良かった
お父ちゃんは、会社の労働組合の書記長だった。周りから「書記長、書記長」とおだてられ、都合よく利用されていた。
ただ、利用されているということを、ちゃんとわかっていたと思う。
ネズミの会議で、天敵の猫に『鈴を付ける』という名案が浮かんだ。鈴の音がしたら逃げれば良いのだ。これは素晴らしい案だ! 問題は、誰が【猫に鈴を付けるか】だ。 【引用:じょーじの記憶 なんかの童話の1節】
お父ちゃんは、「よし! ○○さんが労働組合の会長で頑張るのなら、オレも書記長で会社と戦おう!」と、貧乏クジと分かっていながら引き受けたのだろう。
僕が、こう思えるようになったのは、2010年以降だ。お父ちゃんが亡くなって、数年経ってからだ。
36歳のときに同窓会があり、帰省した。当時僕は、エリアマネージャーでバリバリ働いていた。その僕のことを、お父ちゃんは「会社に良いように使われて」と、嘆いた。嫌味を言っているのでも、負け惜しみを言ってるのでもない、と分かった。
価値観が違うのだ。
そして当時の僕は、(負け犬の代表的なセリフじゃないか、そんなこと言うなよ)と思った。
お互いがお互いを、「残念だ」と、「そんな考え方しかできないなんて」「可哀そうに」と、本心から嘆いたのだ。
◆お父ちゃんは仙人みたいだった
お父ちゃんは、若いころから【足るを知る人】だった。これは、53歳の今の僕だから、そう思えるのだ。当時の家族は、お母ちゃんも、もちろん僕も、おそらく全員が、お父ちゃんは【怠け者】と思っていた。
達観しすぎていて、お金に執着しないのだ。低収入でも、贅沢しなければ生きていける。それならば何も、あくせく働くことはない。そんな価値観だった。
まるで、南国の小さな島の住民だ。もしくは仙人だ。
当時お父ちゃんは、労働者の、労働条件の改善を訴えていたと思われる。日曜日しか休みのない時代だった。
日曜日、お父ちゃんは1人で趣味に出かける。お父ちゃんは、山菜採り、魚釣り、きのこ狩り、などが好きだった。山を歩くのだ。海釣りも、ポイントまでは、険しい道なき道を歩く。
僕や弟が小学生のころは、よく連れってもらった。もっと小さいときのかすかな記憶では、磯釣りに、お母ちゃんも一緒だった。あれはデートみたいなものだったのだろう。海で、家族と食べるオニギリは格別に美味しかった。とても楽しかったし、お母ちゃんも楽しそうだった。
話をもどすと、お父ちゃんは、日曜日の趣味で疲れて、月曜日に有休をとる人だった。
今は、週休二日制が当たり前になった。今なら、お父ちゃんは決して、怠け者扱いはされない。今のこの待遇は、昔のお父ちゃん達の【声】が、もたらしてくれたのかもしれない。
ただ、あたりまえだが当時のお父ちゃんは、お母ちゃんからは、すこぶる評価が低かった。
そりゃそうだ。子ども5人、家族7人を、なんとか養わなければならないのに、頼みの夫は、組合活動や山歩きや釣りにしか興味がないのだ。やむを得ず、お母ちゃんはパートで働く。お母ちゃんは休日出勤もする。子どもに、チョットでもまともな暮らしをさせたかったからだ。
そりゃ普通の人に、仙人の考えなど、受け入れられないのだ。
◆思い出『トマト』
お父ちゃんは、家庭菜園で野菜を作っていた。ある日、トマトの収穫を手伝うように言われて、僕と弟が手伝った。
お父ちゃんは、トマトを1つもいだ。シャツのすそでキュッキュッと拭いて、「ガブ! ムシャ、じゅる、モグモグ」と、トマトを食べた。
僕たちにも「食べてみろ」という。
僕が、「トマトはおいしくない」と言ったら、お父ちゃんは、「あはははは~」と笑った。
「いつも、まずいトマトを食ってんだなぁ。いいから、もぎたてを食ってみろ。うめ~ぞ~」と言った。
たしかに、さっきのお父ちゃんのトマトの食べっぷりは旨そうだった。
1つ、赤く熟しているトマトをもいだ。シャツのすそでキュッキュッと拭いて「ガブ! ムシャ、じゅる、モグモグ」と、一気に食べてみた。
同時に食べていた弟と、顔を見合わせた。
「うんめ~え!!」
トマトの概念が変わった。パラダイムシフトだった。もしくはブレイクスルーだ。
夕方のことで、僕の記憶には映像があるのだが、シャツのすそでキュッキュッとトマトを拭く逆光の中のお父ちゃんは、まるで映画のワンシーンみたいなのだ。
◆思い出『走る姿』
僕は、脚が速くなるのを、あきらめた瞬間を明確に覚えている。小学4年生だ。
お父ちゃんが、海に連れってくれた。弟と一緒だった。
お父ちゃんが、「二人で競争してみろ」と、駆けっこを提案した。僕は足が遅く、徒競走は苦手だった。まして弟に負けたら立場がなくなる。
いやだった。けど、運動会の練習になるかもと思ったし、この時代は、父親に逆らうことは許されない昭和だ。
何回か、海岸を、右へ左へと走らされた。
お父ちゃんは、なんかアドバイスするのかと思ったら、なんにも言わなかった。
最後、「もう帰るか」となって、駆けっこして離れてしまった僕たちのところ目指して、お父ちゃんが走り出した。最後に、お手本を見せるつもりらしく、「見てろよ~!」と言ってから走り出した。
お父ちゃんが走るのを、はじめて見た。正面から見た。
内股走りだった。足だけが、ガニマタ。でも内股。いわゆる女の子走り。
ヒザの動きは女子のように、内へ内へと動くのだ。足。つま先からカカトまでの【足】。靴を履いている部分の【足】。そいつだけは、外を向いていた。
ガニ股なんだけど、女の子走り。それを正面から見たのだ。
このときに僕は、「ああ、僕は、足は速くならない」と思った。
二度寝中に思い出したのは、この、走る姿のお父ちゃんだ。
僕は、夢の中で「ぬははは」、と笑った。声は出てないと思う。
◆〆
僕は、お父ちゃんが好きだ。もっともっと、一緒に酒を呑みたかった。
いろいろ語りながら、呑みたかった。
お父ちゃんと今の僕ならば、きっと楽しい会話になる。お父ちゃんと僕の会話は、意気投合して、かつ、けっこう深い話になると思う。
お父ちゃんの深さを、もっと知りたかった。
記事にするのを、ボツにしたエピソードがまだまだある。
今度、ゆかりちゃんに聞いてもらおう。
そうだ! ゆかりちゃんの思い出ばなしを聞こう! 聞きたい!
僕は、ゆかりちゃんを、もっともっと、知りたいのだ。
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