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母語≠母国語って、大事で、小さな違いなどではなく、根本的な違いです

一昨日の記事にコメントをいただきました。

ちなみに、細かいこと言うと母語≠母国語なんです

うのっちさんからのコメント


ホ~、と思って、ネット検索してみました。
僕は、母語も母国語も同じ意味だと思っていたのです。

母語」とは,個人が最初に習得し,自らの日常的な使用言語であるとみなしている言語のことであり,きわめて私的なものである。
一方,「母国語」とは「母国」である国家が公的に採用している言語を指し,定義上,公的なものである。

「母語 母国語」でGoogle兼索して、最上位のサイトから引用


僕の場合、岩手県宮古市の方言が母語ですね。
僕の田舎では、ゴミを「捨てる」とは言わず、「投げる」と言います。
「ありがとう」の意味で、「おもっさげながんす」と、まるで謝るかのように言います。

僕が子どもの頃は「ウニ」のことを「カゼ」と言っていました。
「ウシ」も「ベゴ」です。


ニュースを読むNHKアナウンサーの言葉が、母国語なのでしょう。
学校で習う国語も、母国語だと思います。

40数年前、僕の田舎の『国語』の授業は、おそらく南部なまりのの先生が母語で母国語を教えていたのでしょう。

たぶん、こういう理解で、良いように思います。

僕の田舎の場合は、それでも母語と母国語の共通点が多かったと思います。
例えば、沖縄県の方は、「うちなーぐち」が母語だと思われますが、うちなーぐちと標準語は、かなり異なります。
単語など、ほとんど違うのではないかなぁ。

バリ島旅行に行ったとき、バリ人は「バリ語」を話していました。インドネシア語とは違っていました。
バリ島の人の母語はバリ語で、母国語はインドネシア語、ってことなのだと思います。


なぜ僕が、母語と母国語にこだわるのか?

赤ちゃん、乳児、幼児に、児童には、

母国語ではなく、母語で接するべき

と考えるからです。

生まれてから数年は、人間らしさや、自我などの

土台作り

です。

知識を与えるのではなく、人間らしく思考するための、

その土台を、周りの大人がプレゼントする期間です。


人間の赤ちゃんって、教育が無いと人間には育ちません。
オオカミに育てられたという、2人の少女「アマラ」と「カマラ」は有名です。


例えばです。

例えば、父親も母親も日本人。祖父も祖母もみな日本人。そういう赤ちゃんが、なにかの事情があって、例えばアメリカ人夫婦の養子となり、アメリカという国で育ち、両親や兄弟、友だちや親せきやも、誰もが英語しか話さなかったなら?

その子が10歳とか15歳とかに成長したそのときに、その子どもを「日本人」と言うのでしょうか?

立派な「アメリカ人」に成長している。……では、ありませんか?

身に付けた言葉も、常識も、自我も、全てアメリカ人だろうと、僕は思います。


ここからが、やっと本題です。

ろう者の母語は、

手話です。

日本語ではありません。

聴者の世界が『正しい世界』なんかじゃありません。
聴者には『聞こえる世界』で、ろう者には『聞こえない世界』
ただそれだけです。

にもかかわらず、ろう学校の聴者の先生は、日本語を教えたがるそうです。
そういう傾向が根強い、みたい……。

その方が、先々便利だろう、という良心からかもしれません。

しかし、無知は罪です。
言葉というツールを与える前に、

言語があるということ
同じ言語を使う仲間がいて、そういう世界があるということ
その世界の中で、自分は愛されているという体感や実感
愛されて当然なんだという無意識の形成
知ることってオモシロイ、という感覚

このような人としての土台を、ちゃんと育てなければならないのです。

この知識は、手話通訳のhanasakiさんから教えていただきました。

この記事 ↓ も、とても勉強になりました。ありがとうございます。


そして、

母語≠母国語


と、うのっちさんに教えていただき、そのおかげで、考えを少し深く、少し広くできたと思います。


うのっちさんって、やさしすぎる『やさしい日本語』の先生です。

おかげさまで、記事が1つ書けました。
良い気づきをいただきました。

ありがとうございます。

一昨日の記事を、母国語と書いたところを「母語」に編集しなおそうと思いましたが、やめました。

その、僕の間違い。
コメント欄で教えてくれた、そのコメント。
そして、この記事。

これで、1つの『作品(記事)』だ。
そう思い直したからです。







※この記事は、エッセイ『妻に捧げる3650話』の第1046話です
※僕は、妻のゆかりちゃんが大好きです。


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