ストリップという日常
命を燃やしているとしか思えない強烈な輝きについて。
ここまで熱を上げることになるとは、思いもよらなかった。
二十歳も少し過ぎた頃、「大人の社会科見学シリーズ」と題して、裁判傍聴から始まり、公共ギャンブル等々、これまで踏み入れてこなかったものを自分の目で確かめて身をもって体験することとした。
ふと思い立てば「よし、今晩夜行バスに乗って大阪に行こう」というような地に足がついていない軽率さが売りで、とにかく興味を持ったものにはすべて足を踏み入れてきた。
何をきっかけに知ったのか今となっては全く思い出せないが、10年ほど前にストリップでエアリアルという空中演目を披露する踊り子さんがいると知ったのが、そのきっかけだ。
今思えば、あれはお目当ての踊り子さんのオープンショーのタイミングで入場したのだと思う。舞台の上から「わ!女の子だ!」と手を振ってくれた光景が今でも忘れることができない。当時はストリップとは男性のためのもの、という自己概念が強く、女性である私がそこに踏み入れることに後ろめたさ、罪悪感すら感じていたので、踊り子さんが歓迎してくれている!ということに心躍ったのを覚えている。
初めて見るストリップは驚きの連続だった。劇場は想像よりもものすごく狭く、ものすごく舞台に近く。踊り子さんたちにくぎ付けになっている男性たち。常連さんと思しき男性が前に座りなさいと席を譲ってくれた。踊り子さんは同じ人間とは思えない柔軟性しなやかな動きを繰り広げ、ポーズが決められると盛大な拍手を送るのがお決まりのようだった。脱いだパンツは手首に巻く。あまりに近いので息遣いや表情まで一つ一つ、感情が読み取れそうなほど見て取れた。目の前で繰り広げられるめくるめく熱量に圧倒されるばかりで、あの夜のことはお目当ての踊り子さんの演目以外は何一つ思い出せない。とにかく強烈な体験として記憶に残っている。あまりに強烈な記憶だったが為か、当時はその一回で満足してしまったのは、今となっては悔やまれる。
それから数年後、たまたま関東へ訪れる予定があったタイミングで有名AV女優がストリップを経て引退!という噂を聞いた。画面の向こうの存在であった彼女をリアルで観てみたい。場所はかの有名な浅草ロック座。引退興行ということで普段よりも大満員の毎日大入りが飛交う20日だったと聞く。
初めて訪れた浅草は、初めてストリップを見た劇場とは大違いでしっかりとした、というと大層失礼かもしれないが、これまでに演劇を見てきた〇〇芸術劇場とかいうような劇場に似ていた。レビュー形式でバックダンサーがつくような、舞台としか言いようのない煌びやかな光景に息を飲むしかなかった。
この時もまたストリップはひと時の非日常として、はたまたここから再度ストリップへ足を運ぶには数年の時間が空いた。
何度もチャンスはあった。香盤だけは時たまチェックし、あの空中演目をする踊り子さんが乗るのを確認しては、行きたい!と思えどなかなかタイミングが合わず、しばらくは見ることは叶わなかった。タイミングもチャンスも作るもので昨年2023年秋、あの踊り子さんが来ている!と知った次の日には劇場へと向かっていた。推しの踊り子さんの幕が開いた途端、じわっと視界が歪んでしまうのがわかった。演目中、ずっと涙が止まらない。ポラでも号泣して、合ポラでも大号泣してしまったままで、かなりやばい女だったはずだ。思えばここから私の運命は変わったのだと思う。
それからまた、年が明けた1月ふと劇場を訪れてみた時に、推しと同じ香盤に乗っていた踊り子さんもいらっしゃった。同じ踊り子さんでも、演目によってイメージをはじめ何もかもが全く違うこと、踊り子さんによって魅力的だと思うポイントが全く違うこと。彼女たちをずっと見続けていたいと思ってしまった。結果、そこから劇場へ足繫く通う羽目になってしまった。一回どころでは終わらない彼女たちの魅力について、何度でもいつまでもわたしは見ていたい。
1年中を通していつでも劇場で行われているスペクタクル、行けば立ち会える幸せ、劇場でしか味わえないパッションにエネルギー、夢中になる要素しか、ストリップにはない。その日常としてしまえる包容力に私は没頭することとなったのだ。これが日常である限り、時間とともに変化していく恒久ではないはずで。目一杯、ストリップという文化を今、享受していきたい。
普通の人の毎日はその人だけのもの。人の暮らしに興味があります。なので自分も書き残してみることにしました。いつか文フリに出るときの貯金にします。