第一回十字軍のこと
西暦1099年7月15日、エルサレムはローマ教皇が提唱した第1回十字軍による40日間の攻囲の果てに陥落した。
エルサレムから追われ逃げて来た人々は、その身体を震わせ、目は一点を見つめ語った。
「鎧を着た金髪の兵士が路上にあふれ、剣を振るって男女、子どもの喉をかっ切り、家や寺院を荒らし回っていた、その悪魔のような姿が目に焼き付いている」
「多くのイスラム教徒はソロモン王の神殿跡に逃れたが、十字軍の軍勢は執拗に虐殺を行いそのほとんどを殺害し、血がひざの高さに達するほどになった」
「中には混乱にまぎれ、十字軍が押し破った城門をくぐり抜け、脱出した者もわずかながらいたが、他は何千という死体となって家の戸口や寺院の周辺にできた血の海の中に投げ出されていた」
「この中には導師(イマーム)や法学者(ウラマー)、神秘主義派(スーフィー)の苦行僧も多数いたが、彼らは聖地で敬虔な隠遁生活を送るために故国を離れてやってきた人々だ」
「彼らの虐殺が終わった時に、エルサレムの城内でムスリムの姿は一人もなかった」
「最後まで生き残った者には最悪の仕事が与えられた」
「死体を背負って運び、広い空き地に埋葬もせず、墓もない所にただ山積みにしてから焼き払う仕事だ」
「その後で彼らもまた殺されるか、奴隷として売り払われた」
「エルサレムのユダヤ人の運命も悲惨極まりなかった」
「戦いが始まって数時間、一部は自分たちの居住地域、すなわち市の北側のユダヤ区の防衛に加わった」
「しかし、家々を取り囲んでいる壁の一部が崩され、金髪の十字軍騎士が通りに侵入し始めると、彼らは狂乱状態に陥った」
「居住区の全員が、しきたりどおりシナゴーグ(ユダヤ教の寺院)に集まり、祈りを捧げた」
「すると十字軍は出口を全部ふさぎ、次いで、周りに薪を積み上げ、火を放った」
「脱出を試みた者は近くの路地でとどめを刺され、他は焼き殺された」
「軍勢はエルサレム市民の虐殺を行った」
「イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒正教会(ギリシャ正教)、アルメニア使徒教会、コプト正教会など、各教派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの大司教がエルサレムに立てられた」
「キリストが架けられた『聖十字架』など聖遺物は、十字軍が現地キリスト教会の司祭達を拷問し、ほとんど全て強奪した」
十字軍によるエルサレム市民の虐殺が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「エルサレム公」そして「聖墳墓の守護者」と名乗った。
これはゴドフロワが、主であるキリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからとも、他の十字軍諸侯の反感を恐れたからとも言われている。
陥落終了後、静かになった市内では、イスラム教徒、ユダヤ教徒、現地のキリスト教徒の血まみれの老若男女の死体が、無造作に積み上げられ。まるで川のように夥しく血が流れ出し、また酷い屍臭が漂っていた。
その血の川と酷い屍臭の中、ローマ教皇から派遣された十字軍兵士と、ローマ・カトリックの聖職者たちは、聖墳墓教会に集まり、「神」に「この上ない感謝と喜びの祈り」を捧げた。
異教徒も、現地のキリスト教徒も、老若男女も見境なく、残虐の限りを尽くし殺害した「その人たち」が、聖墳墓教会の聖なる祭壇に、泣きながら「この上ない感謝と喜びの心」でひざまずいたのである。
まさに、これは神の御心をかなえたのだろうか。
だとしたら、神とは何か。
なにゆえに、神は、こんな惨いことを望むのか。
神が好むのは、人の血と涙と絶望なのか。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、神そのものは共通であったはず。
この悲惨極まりない事件に対し、神への疑問は尽きない。
そして、つくづく、理解した。
人は「神の栄光のために」、「どこまででも残酷になれる」ということを。