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紫式部日記第144話かく、かたがたにつけて、

(原文)
かく、かたがたにつけて、一ふしの思ひ出でらるべきことなくて過ぐしはべりぬる人の、ことに行末の頼みもなきこそ、なぐさめ思ふかただにはべらねど、心すごうもてなす身ぞとだに思ひはべらじ。その心なほ失せぬにや、もの思ひまさる秋の夜も、端に出でゐて眺めば、いとど、月やいにしへほめてけむと、見えたるありさまを、もよほすやうにはべるべし、世の人の忌むといひはべる咎をも、かならずわたりはべりなむと憚られて、すこし奥にひき入りてぞ、さすがに心のうちには尽きせず思ひ続けられはべる。

(舞夢訳)
このように、他人のことを様々に申してまいりましたけれど、(そもそも私は)何一つ、これは、と思われる取り柄などなく、ただ過ごして来ただけの人であります。
それに加えて、この先の身の安心だってないのですから、心の慰めにするものもありません。
ただ、自分自身、冷え冷えとした心のまま、生きようとは、せめて思わないようにしております。
やはり、風流を求める心が、この私には失せていないのでしょうか、物思いに沈むことが多い秋の夜は、端の近くに身を出して、月を眺めたりします。
そうしていると、まるで「あのお月様を、昔は愛しく眺めたな」と、若い頃の自分まで思うので(お笑いではありますが)、今の衰えてしまった容姿が、さらに哀しく思ってしまいますし、世間の人が忌み嫌う「月の光の罰」を、必ず受けてしまうだろうと恐れ、奥に引っ込んでしまうのです。
それでも、やはり、心の奥では、物思いが果てしなく続くのです。

※世の人の忌むといひはべる咎:「月の顔を見るは、忌むこと」(竹取物語)など、月をみることは、不吉、と言う通念があった。

これも、紫式部独特の複雑な文である。
他の女房の批評を続け、我が身を考える。
「何一つ取り柄が無い、目立った思い出がない」は、紫式部独特の自己批判性格から。
そもそも、その学識と源氏物語などを「評価され」、中宮の教育係として、名誉あるスカウトを受けたのだから、そんなことを思う必要は無い。(一説には、道長は、紫式部の実家の関係者とも、深い縁を結ぼうとしたと言われていた、その意味も込めて、紫式部をスカウトした、と言われるけれど、道長の内心は不明)
道長の愛人説は、あまり評価できない、それを言えば、道長の屋敷の数ある女房は、全員が道長の愛人の可能性がある、特に紫式部だけが特別に愛人の務めを果たしたわけではない。
余談が長くなった。
風情を求めたくなる、月を愛でたくなる、結局そんな自分を恥じて(容姿が衰えた自分を恥じて)、世間で言われている「月を愛でる罪」にかこつけて、また奥に引きこもる。
しかし、そんな簡単に、わきあがる思いは、抑えきれない。
結局、人の心は、(どれほどのすごい人であっても)理屈では、簡単にはおさえられない複雑なものなのである。

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