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オルレアンの火刑 生きながらの火刑の始まり。

異端審問「制度」の成立以前の事件になる。

ラウール・グラベル(フランスの修道僧、10世紀~11世紀;年代記作者)の年代記によると、

1022年に、オルレアン(フランス中北部のロワール川のほとり)にて異端者が密告により発覚し、10数名が逮捕された。

フランス国王ロベール敬虔王(カペー朝 第2代、在位 996年~1031)は、その異端者の中に、司教座大聖堂の高位聖職者が入っていたことを、問題視した。

ロベール敬虔王は、現地オルレアンにおいて、聖職者と貴族の会議を招集した。
(国王が結論を下せる諮問会議であるか、あるいは教会主権の会議であるかは、不明)

さて、逮捕拘禁された異端たちは、サント・クロワ大聖堂(会議場)で、「鉄より厳しい」尋問を受けるが、頑固に自説を撤回しない。
結果として、「王の命令と全人民の賛意で即刻火刑判決」になった。
その際、列席していた王妃コンスタンスは、「信仰の熱意のあまり」、異端者の一人、エティエンヌを散々に打ち据え、爪で眼球を抉り抜いたと言う。
※エティエンヌは、かつては王妃の懺悔聴聞層だった。

実際の処刑にあたっての記録である。
火刑を宣告された異端者たちは、何も表情を変えなかった。
それどころか、「我々は、火で焼けることはない」と胸を張り、逆に心配な目で、「悔悛を行うように」と忠告する人々を、嘲笑った。

ロベール敬虔王は、「市外の、ここから見える場所に大きな火を燃やせ」と、指示を行った。

しかし、異端者たち13人は、その大きな火を見ても、脅えることはなかった。
「望むところだ」とまで言いはり、自ら大火の中に入った。
激しく燃える火が、異端者たちの身体を焼き始めた時点で、ようやく大きな悲鳴が聞こえて来た。

「我々は、悪魔に騙されてしまった」
「神と万物の主について、今までの考えは、全て間違っていた」
「罪を受け、この世で苦しみ、あの世でも苦しまなければならない」

異端者たちは火刑に付されながら、異端撤回を叫んだが、火の勢いが盛んで、手の施しようがなく(既に救い出せない状態)、生きながら焼け死んだ。

さて、このオルレアンの火刑から、異端の極刑(後代の魔女火刑も異端審問の範疇になる)は火刑が常識になる。

しかし、明確な理由は、ない。
(イングランドの極刑は絞首刑が主流)

「火によって、異端の罪を浄化する」
「火刑は肉も骨もなくなるので、最後の審判で復活できない」
「結果として、最後の審判以降は、異端は皆無である」

後に、教会関係者が、上記のような説明を行っているが、オルレアンの異端火刑の時は、悔悛を促すための「威嚇」だったらしい。

また、このオルレアンの火刑の噂が広まると、他の国王や領主が異端審問を権力と権威の維持に利用しようとしたため、各地に波及することになったのが実態らしい。

尚、後代の魔女裁判における死刑においても、極刑は火刑が原則である。
ただし、火刑にも二種類あった。
絞殺後の火刑(自白者)と、生きながらの火刑である。
極刑に付される魔女は、虚偽自白(ほとんどが拷問を受けての虚偽自白)を撤回するより、絞殺後の火刑を望んだ。
また、火刑場で自白を虚偽であったと撤回した場合は、「法廷で虚偽の自白を行った、神を軽んじた罰が発生」したため、生きながらの火刑になった。

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