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紫式部日記第128話斎院に、中将の君といふ人はべるなり(3)斎院と中宮御所の女房の違いについて

(原文)
つねに入り立ちて見る人もなし。をかしき夕月夜、ゆゑある有明、花のたより、ほととぎすのたづね所に参りたれば、院はいと御心のゆゑおはして、所のさまはいと世はなれ神さびたり。またまぎるることもなし。上に参う上らせたまふ、もしは、殿なむ参りたまふ、御宿直なるなど、ものさわがしき折もまじらず。もてつけ、おのづからしか好む所となりぬれば、艶なることどもを尽くさむ中に、何の奥なき言ひすぐしを交はしはべらむ。

(舞夢訳)
(そもそものこととして)斎院の中になど、頻繁に出入りして、中を見る人などが、あるのでしょうか。
風情のある夕月夜ですとか、趣きのある有明、桜の花が咲いた時、ほととぎすの声を聞く時などの、(ご挨拶先)との目的で参りましたけれど、(確かに)斎院様は、ご趣味優れ、お住まいは、世間とはかけ離れておられるので、神々しさも感じます。
また、(そもそも)雑事に気を取られることもないのですから。
(こちらのように)中宮様が、帝の御前に参上なされるとか、道長様が来られて、そのうえ、お泊りになられる、そのような時の慌ててしまうようなことがなく、日々が整然と過ごされることから、自然に、そのような趣深い場所になるのです。
(それを考えれば)そのような趣深い、神々しい場所で、風情を極めようとする暮らしの中で、どうして軽々しい言い過ごしなど、起こりうるのでしょうか。

紫式部は、中宮付きの女房の生活と、賀茂の大神に仕える斎院の女房の生活は、そもそも異なると主張する。
雑事に気を紛らわせることもなく、世間とかけ離れていて当たり前の斎院の女房なのだから、風趣を極めるとのことにおいては、出来て当たり前との論である。

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