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一遍上人語録 別願和讃(4)

善悪不二の道理には そむきはてたる心にて

邪正一如とおもひなす 冥の知見ぞはづかしき

煩悩すなはち菩提ぞと 聞きて罪をばつくれども

生死すなはち涅槃とは いへども命ををしむかな

(意訳)
凡夫である私たちは、善悪不二の道理からは、ほど遠い心を持ちながら、邪と正はもともと一つなどと、えらぶって口にしています。
これこそ、思い上がっていて恥ずかしいことなのです。
煩悩とはそのまま菩提あって仏も衆生も差別がない、と聞いて罪を犯すけれど、生死はそのまま涅槃と言いながらも、結局は命を惜しんでしまうのではないでしょうか。

※善悪不二の道理:御仏の世界(道理の世界)においては、本来、善悪には差別や対立がないという道理。
※菩提:迷いから目覚めること。
※涅槃:煩悩や迷妄を脱して真理を証得すること。

御仏や聖者であれば、善悪不二の道理や邪正一如の理論を語る資格もあるけれど、人間は身勝手なもの、ろくに理解もせずに、知ったかぶりで、そんなことを恥ずかしくも言いふらす。
しかし、それは、単なるわかったフリに過ぎない。
実際には差別の思いや行いを止めることはない。

煩悩も菩提も同じなどとは、煩悩がない御仏や聖者だから同じなのである。
我々のような未熟な人間は、結局、それを聞いて悪用して、他人に害をなすような罪を作ってしまう。
生死とはそのまま迷いの世界、それが煩悩や迷妄を脱した真理を証得した涅槃の世界と同じと言っておきながら、結局は、自分の命を惜しむことはできない。

この部分は、当時の理論に走る高位の僧侶たちへの、痛烈な批判なのだろうか。
高邁な理論を述べながら、自らの出世と蓄財、他者の追い落とし、延命に励む。
それでいて、苦しむ人々の救済には知らんぷり。

ただ、今でも、それほど変わっていないのかもしれない。
葬儀にだけ顔を出し、高額な金額を求める僧侶の何と多いことか。

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