見出し画像

誰もが「特別」?論

誰もが「特別」。

何かの広告で見た。

誰もが特別。

どういうことだろうと思った。

皆、一度は、自分は特別なんだって思ったことがあるのではないか。自分には特別な才能があったり、好きなことを仕事にできたり、それでお金持ちになったり、届かなそうな素敵な人と恋に落ちたり。色々シチュエーションはあるけれど、きっとそのうち叶えられるかもしれないなんて期待してしまったりする。

でも、ある日、自分だけが特別ではないことに気づく。

自分には才能がない、とまではいかなくても自分は「普通」なんだと気づく。

生半可な期待とはいえその分、絶望も大きい。

ある程度の歳になると、むしろ普通とまでもいかず、劣等感に苛まれ始める。

最近、転職活動をしていたけれど、この歳から新しいことを始めるにはたくさんのハードルを乗り越えなくてはいけないのだ。でもそれ以前に、書類・面接という難問がある。そこで不採用をもらうと今までの人生の全部を否定されたような気にさえなるのだ。

そんな風に、大人になるにつれて見えてくる理想と現実、そして期待と悲観で自分の存在意義を探る機会が増えてくる。

誰もが「特別」。

それは一体どういう意味なんだろう。

唯一無二?「お前の代わりなんていくらでもいる」なんて言われたら(言われたことはないけど)個性なんか求められておらず、スペックを持った機械がそこでは求められているのだろう。

じゃあ個性は必要?

自分は特別ではないかもしれない。何が得意なわけでもなく、能力もなく、若い頃の夢は夢のままなところもある。日常の中で、ご飯が美味しかったり、健康だったり、友達がいたり、でもそれって私だけじゃない。悲しいことや、落ち込むことがあるのも、皆一緒。だとしたら、いろんな感情を共有できて、自分と同じ境遇で頑張っている人がいるかもしれないと思うだけで気持ちが楽になる。

特別ではなくても、誰かと感情を共有できることってそれが幸せだったりする。1人では幸せになるのは難しいから。人と一緒にいる時に、そう感じる。

特別でなくてもいい。

共有しよう。

それでハッピー。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?