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私が唯一「ふるさと」だと思う場所はもう無いけれど

今、福島県双葉郡に暮らしながらローカルライターとして活動している私の出身地は神奈川県横浜市。
ただ長らく借家暮らしだったため、「ここが私の故郷」というようなルーツが無い。都心で核家族で暮らす人にとっては珍しいことでは無いだろう。

だが、ここ福島県双葉郡では訳が違う。ここに住んでいた人たちは、2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発事故による長期避難で強制的に何年も故郷を離れなくてはならず、まだ帰れない人も大勢いる。

「私の故郷」が失われてしまった人が多くいる。避難が続く中で、故郷は自然の猛威や工事や解体や除染で姿を変えてしまった。「荒れてゆく故郷を見たくない」「故郷の思い出をきれいなままで残したいから戻らない」という話を何度か聞いた。

故郷と思える土地がない、強制的に土地を追われたことのない私には、その気持ちを理解することはできない。そう思っていた。
でもある日、ふと気付いた。土地としての故郷は無くても、私にとって故郷と思えるような場所がひとつだけあった。それは、母の実家、私にとっておじいちゃん、おばあちゃんが暮らした家だった。

毎年お正月には親戚中が集まり、夏休みにも、冬休みにも、特に長期の休みで無くても、遊びに行った。私は母方の孫の中で1番初めに生まれた女の子だったため、特に可愛がってもらったこともあり、おばあちゃん子で、妹が生まれる時も、両親が長期出張する時も、この家に泊まっていた。

15年前くらいだろうか。おじいちゃんもおばあちゃんも認知症が進んでしまい、2人揃って施設に入居することになった。その入居資金のためと家を継ぐ人が居なかったことが重なって、その家は売却された。

私はたまたまそのタイミングで手伝うことができない立場にいたため、おじいちゃん、おばあちゃんが暮らし、親戚たちが集まり、私も大好きだったその家の最後に立ち会うことは出来なかった。そしてその後も、その家の近くに立ち寄ることはなかった。

多分、見たくないのだ。自分の思い出の詰まった家が解体され(ているかどうかわからないけど)、違う建物が建って(いるだろう)、そこに他の人が住んでいるのを。それを見ることで、私が唯一「故郷」だと思える場所の記憶を上書きされたくない、色鮮やかに残る記憶をそのまま遺しておきたい。

あくまで私の個人的な思いだけだし、私はその場所に行こうと思えば行ける。11年間閉ざされた場所とは次元が違うことも理解している。
でも、見たくない、きれいなままで残したいという、前に進めずに、立ち止まったままの気持ちは、少しだけ重なるものがあるのではないかと感じた。

施設に入って数年後、おじいちゃん、おばあちゃんは亡くなった。私は未来永劫、あの場所でおじいちゃん、おばあちゃんと過ごすことはない。私の唯一の故郷は、もうどこにもない。

先日、こんな詩に出会った。

家は、永遠ではない。
火のなかに、失われる家がある。
雨に朽ちて、壊れて、いつか
時のなかに、失われてゆく家がある。
けれども、人びとの心の目には
家の記憶は、鮮明に、はっきりとのこる。
長田弘「あるアメリカの建築家の肖像」より一部抜粋

私の心の目には、その家の記憶は今でもくっきりと残っている。
ベランダから見る庭も、そこに植わっていた柿の木も、夏におばあちゃんが切ってくれてみんなで食べたスイカも、私が大好きなコーンスープを必ず用意してくれていたことも、ご飯を食べ終わった食卓で渡されたノートに日記をつけたのも、急な階段から落ちたことも、こっそり屋根の上にのぼったことも。

故郷を、家を、失ってしまった人たちの心の目にも、家の記憶は鮮明に残っていることだろう。
その記憶をつなぎ合わせるようなまちに、これからしていければいいなとぼんやり思う。

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