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性善説と歪んだ自己愛が絡まると
30を目前にし、自分という人間とその周囲をメタに俯瞰できるようになってきたと感じる。
今までは網膜に写る全ての景色が寄りの画角でトリミングされていたのに、ある時からそれが引きの画となって、自分と自分の周囲を少し遠くから眺められるようになった。
自分が生きてきた時間軸の中から、せっせと蓄えてきたインプットを反射的に引用して考察してみるような余裕さえ生まれている。
ここ最近生まれたある種の精神的余裕からくるものなのか、単に歳を重ねたからなのか、理由はよくわからないが、自分の視点がそうやってメタに移り変わっていく中で、潜在的に自分の中に在り続ける性善説にふと考えを巡らせるようになったのだ。
自分は自分の外の世界を斜に構えて見ているかと思いきや、意外とそうでもなく、あっさりと状況を呑み込んでしまうところがある。
他者を信用することも難しくはなくて、自分との関わりの中で何か一つでも思い入れを持つような取っ掛かりがありさえすれば、自分は相手に対して盲信的になる。世は不安定であるという前提のもと何かにつけて冗長に語るくせ、何の根拠もなく相手への絶対を求めている。相手は絶対に自分を裏切らずにいてくれるという重さ、何より人として善人であるはずだと信じて疑わない短絡さが自分の中にあったのだと思う。自己承認欲求の高さも相俟って、他者に対して精神的に深い繋がりを求めていたのかもしれない。
その相手から何かしらの裏切りを受けたとき、酷く絶望するのは想像に容易くない。
しかしこれは自己愛の強さゆえに起こる拒絶反応で、更にいうなら自分が勝手に始めたイマジネーションでもあるからそこまで落胆するのはちょっとズレている。
自分以外の存在はあくまで憶測でしか語れない。頭では分かっていても、情緒が理屈を上回ってしまう。そういう阿呆でマヌケな自分は、良くも悪くもとても人間らしいと思う。
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